先日、三回忌の法要を無事に終えました。
京都はちょうど紅葉が綺麗な時期でした。
今回は前日から、シニさんのご家族と町屋を借りて泊まりました。
ゆっくりお話できて、陽向の成長も見てもらうことができて、本当に良い時間を過ごせました。
(※音声ありです)
日々バタバタと過ごしており、ここまであっという間だったように思います。
法話の中で、ご住職がシニさんの言葉を紹介してくださりました。
「自分の願いが叶うことが
救いではありません
自分が願われていることに
気づくことが救いです」
この言葉が掲載された寺報には、下のような言葉も書かれていました。
「自分の願いが叶う、思い通りになる人生を求める私たちに、たとえそうなったとしてもそれは救いではないと、鄭さんの言葉が深く問いかけています。」
(敬信寺だより2022年2月号より)
シニさんの亡き後に、シニさんの言葉を知るということが、不思議で印象深くて、嬉しいとも、悲しいともまた違う気持ちになりました。
まず、私は「救い」という言葉を普段使わないので、救いとは、どういったことを指すのかが、ぼんやりしていました。
法要から帰った今も、この言葉を何度も読んでみて、考えています。
自分の願いを叶えようと行動し、挫折したり、達成したりしながら、試行錯誤することも人生において大切なことだと思うのですが、人生とはそれだけではないことも理解できます。
気づくべきことはないか。
たとえ余裕のない生活であっても、考える時間を見出す必要があることを思い直しました。
人と共に、それが生きている人であってもそうでなくても、共に生きていることを大切に思いながら毎日を過ごしていきたいです。
シニさんの願いを繋いでいきたい、そう思えることも、救いなのかもしれません。