君へ

この手紙を君が読めるようになるころ、僕はこの世にいないだろう。

もう僕は神や仏を信じるとか信じないとかというレベルではなく、

信じざるを得ないところまで僕は追い詰められている。 

 

がんになって、自分の人生を振り返ると暴力とウソだらけだった。

僕は君の父になることが怖かった。

僕の父は、僕をよく殴りつけた。

僕は父に殴られないためにウソをついた。

子どもの時の記憶は大人になった今でも思い出し、

自分の行動の選択肢の中に常に暴力とウソがある。

 

暴力とウソで僕が誰かを傷つけることがいつも怖かった。

常に人の目を気にして、自分が人からどう思われているのか分からず、

暴力とウソで自分が傷つけられないように、またウソを重ね、

本当の自分というものがわからないでいた。

君の母に出会うまで、僕は本当に人を愛するとはどういうことかわからなかった。

君の母に出会えて僕は本当の愛を知った。

彼女の前では決して暴力とウソを使わないと誓った。

 

僕個人の誓いだが、それは実は人類全体の問題でもあった。

 

誰しもが暴力のない世界、ウソのない世界を求めている。

暴力のない世界は平和な世界で、

ウソのない世界は真実の世界だ。

平和な真実の世界をみんな求めている。

 

僕一人の誓いは、人類全体の救いであったわけだ。

 

しかし、問題はそう簡単に解決しない。

みんな平和な真実の世界を求めているにも関わらず、

世界を見渡せば暴力とウソだらけだ。

なぜそうなるのだろう。

 

僕は一つの答えを見つけた。

それは「私物化」という我執だ。

誰しもが誰かの役に立ちたいと思って生きている。

そこに執着が生まれると、

自分が正しいということを証明したいということになる。

自分の思い通りなることが正しいとなってしまう。

思い通りにならないと暴力とウソで他人を支配しようとする。

暴力とウソは簡単に人を恐怖に落とす力がある。

恐怖は人を臆病にしてしまう。

いじめの原理も同じだと思う。

 

もしくは自分にウソをつき続け、

全てが自分の思い通りになっているようにごまかす。

そうならないために僕たちは考え続けなければならない。

答えが出ることが正しいことだと僕は思わない。

複雑なものを複雑なまま受けいれる力が必要だ。

考え続けるという行為によってのみ正当性が生まれてくる。

考え続けることを放棄してはならない。

 

考え続けることによって「私物化」という我執から逃れることができる。

君が何か選択を迫られた時、暴力とウソに頼らなければ、

その選択で世界は少しだけいい方向に向かうだろう。

自分がその時気づかなくてもだ。

 

君の選択の積み重ねはいつか世界を救うことになると信じている。

君の時代でも無理なら、次の時代へ引き継ぐように生きたらいい。

そうやって生きていくことは人生の孤独と虚無という大きな問題を解決してくれるはずだ。

 

世界じゅう多くの問題が山積しているように見えるが、

問題は実は一つだけのように感じる。

それは「どう生きるか?」ということだけではないか。

 

この先、君は思春期を迎えるころ苦悩が襲ってくるだろう。

なんのために生きているのか分からない時がくるだろう、でも安心して欲しい。

 

苦悩と不幸は違う。苦悩の中にいる時、それは自分と対話しているんだ。

自分を卑下しなければ決して君は不幸ではない。

そして、悩むことと考えることは違う。

悩みはグルグルと周り続けるが、

考えることが出口に向かって歩むことだ。だから考え続けて欲しい。

考えて、考え抜いた先に世界中に散りばめられた真実の言葉が見つかるだろう。

 

人生とはそのような言葉を探す旅のようなものかもしれない。

 

君には良き先生と出会って欲しい。

出会いによって人はどのようにも変化する。

だから先生を求めることはどんなに時間がかかってもした方が良い。

先生を見極めるポイントは一つだけ僕は知っている。

それは本当の先生は「来い!」とは言わない「行け!」というのが本当の先生だ。

ちょっと難しいかもしれないが考えてみて欲しい。

 

僕は死にたくない。

君の人生をずっとずっと見ていたい。

君の母をもっともっと愛したい。

僕の母より先に死ぬことを申し訳なく思う。

しかし、何度もくじけそうになっても

「私の人生はここから始まる」

という魔法の言葉に何度も救われる。

それは過去を背負い未来を歩む言葉だ。

 

何度でも立ち上がり生きてゆける。

それが明日、僕の死を知らされようとも、僕はリンゴの木を植えよう。

正しい生き方があるとすれば、それは死者とともに生きてゆくことだと思う。

僕の中で死は終わりではなく、死んでから生きている人を照らすような存在に変化すると思っている。

 

僕が死んで、僕の事を思い出した時、僕はそこに存在する。

それをキリスト教では「復活」というのではないだろうか。

仏教では「念仏」だ。

一瞬の間に僕を見つけることができたら、その一瞬は永遠の時間を持つことだと思う。

 

「永遠」アルチュール・ランボー

 また見つかった、

 何が?

 永遠が

 海と溶け合う太陽が。

 独り居の夜も

 燃える日も

 心に掛けぬお前の祈念を

 永遠の俺の心よ、かたく守れ。

 人間どもの同意から

 月並みな世の楽しみから

 お前は手を切って、

 飛んでゆくんだ・・・

 ・・・もとより希望があるものか

 願いのすじがあるものか

 黙って黙って堪忍して・・・

 苦痛なんぞは覚悟の前。

 明日という日があるものか

 美しく燃える白い肌

 それ、そのあなたの灼熱が

 わたしに熱をあたえる

 また見つかった

 何が?
 

 永遠が

 海と溶け合う太陽が

           (大江健三郎訳)

 

海に沈んでゆく太陽、波の満ち引き、体に触れる風、君が感じる全てに僕は存在している。

だから安心して欲しい。姿、形は見えないが、君と共に生きて行くことを誓う。

どんな時でも君を愛することを誓う。

なにより、君の母は最高だ。なんでも相談するといい。

 

そうそう僕は父とキチンと話をし、父のすべてを許すことができた。

僕が父になることで全てを許すことができた。

君が生まれてくれることで父とキチンと話す時間が生まれたんだ。

これは僕にとって大きな救いになった。

生まれてきてくれてありがとう。

またどこかで会おう。じゃあ。

父より

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