僕は2年前にがんになってから、

ずっと死について考えてきました。


僕の一つの結論として

「死は奪われるものや無くなるものではなく

 与え、授けるものである」


という結論になりました。


僕の病や死をきっかけにして色んなところで新しい繋がりが生まれています。

この繋がりは僕からのギフトやプレゼントだと思います。


先日、見舞いにきた母は

「死は新しい人生のスタートです」

と言っていました。


僕もそう思います。


死に関してはそれでいいのですが、


死の恐怖に関して明確に書いてある書物がほとんどなく、漠然と死ぬのが怖いとしてしか表現されていません。


様々ながん患者会やがんの友人などの体験を聞き。

一体、死の何が恐怖なのか考えました。


大きく分けて死の恐怖は3つあります。


1・物理的な恐怖(目に見える形での恐怖)


2・精神的な恐怖(目に見えない形での恐怖)


3・魂の恐怖


になります。


1・の物理的な恐怖は痛みであるとか、外見の変化や金銭の問題とかです。

1・に関しては長期的にみるとそんなに大したことではありません。

痛みは緩和ケアでとれます。

外見は生きていればそれで良いと思えれば、

どうでも良くなります。

金銭的な部分では高額医療制度と障害年金を使えば負担は軽減されます。


2・精神的な恐怖は大きく2つに分かれます。

それは「虚無」と「孤独」です。

「虚無」=私の人生は何だったのだろう

「孤独」=私の人生を理解してくれる人はいなかった

です。

これが一番辛い死の恐怖だと思います。

自分が世界の中で一人ぼっちになったような気分に襲われます。

100年生きたとしても自分の人生を振り返ったとき「私の人生はなんだったのだろう」「私の人生を理解してくれる人はいなかった」と思うことはかなり辛いことです。

精神が崩壊するほど辛いことです。


3・魂の恐怖なのですが、これは死んだらどうなるんだろうという不安です。

ほとんどの宗教がこの問題をテーマにしているように感じます。

「地獄や天国」

「お浄土」

「ヴァルハラ」

などなどの死後の世界を定義することで、死の恐怖を和らげるのが宗教の大きな役割なのだと思います。

また、死後の世界を定義することは、今生きてることを知ることです。

ですので、正しい生き方の方法を教えてくれるのも宗教の大きな役割だと思います。


全体を通して流れているのは

「私が私でなくなってしまう」

ことの不安や恐怖があるように思います。


死んでも私という存在は変わりません。

私一人尊い。

それを「天上天下唯我独尊」といいます。


死んで全てが終わるわけではありません。

死んでから続く人生があります。

それは生きている人の記憶に残り、

思い出される時に生き返ります。

それをキリスト教では「復活」といいます。

「死してなお生きる」とはこのことです。


僕は自分の人生を誇りに思います。

一生懸命、未来のために生きてきたので自分の人生に納得しています。

僕がまいた種は必ず花が咲くでしょう。

それを未来の光と呼びます。


そうやって生きていると

「私の人生は何だったのだろう」

「私の人生を理解してくれる人はいなかった」

などの

「虚無」や「孤独」を感じずに済んでいます。


この世を去る名残惜しさはありますが、

死に対して恐怖はさほどありません。


以上、死の恐怖についてでした。


写真(陽向笑顔バージョン)