91-100枚目までのテーマ:思い残したこと

 

 

前回、自分の中にある5つの人格

(考えを擬人化したもの)を見ていったら、

ずっと気がかりだった自分の「容赦なさ」が、

ストンと腑に落ちた。

 

彼らの声や境遇を追っていったら、

「そりゃ、そうなるよね」と思った。

 

 前回の記事(No.98) 🔽

 

 

ずっと認めたくはなかったけれど、

私には容赦ない一面がある。

 

「相手の急所をつくよね」と

親戚の伯母さんに、笑いながら

言われたこともある。

 

 

17歳の時の父との出来事を書いた

No.94の公開をためらったのも、

そのことが関係していた。

 

「父からされたことを返しただけ」

と言いながらも、そんな自分の一面を

良くないとも思っている。

 

要は自分の容赦なさを人に知られることに

抵抗があったのだ。

 

なかなか公開できなかったNo.94 🔽

 

 

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言いたくない気持ちがあった

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人から「冷たい」と言われた記憶はないけれど

「厳しい」と言われたことは何度かある。

 

そのときは、相手のことを

「甘やかされて育ってきた人」だと思って

気にかけることもなかった。

 

ただ、今思うと、それがきっかけで、

人との縁が切れてしまったこともあった。

 

 

言いたいことを思いっきり言った上で

縁が切れるならまだしも、

前回の記事にも書いた通り、

私は「言えない人」でもあった。

 

正確には「言いたくない人」だった。

 

「寛容でなければいけない」

「口うるさいと思われたくない」

と思っていたからだ。

 

 

だから、いざ言うとなると、

「言いたくないのに!」

という気持ちからヤケクソになり、

容赦なさにも拍車がかかっていたのでは

ないかと思う。

 

相手にとっては関係ないことだから、
迷惑なこと、この上ない。

 

けれど当時は、相手が私に不本意なことを

「言わせている」と思っていたので、

そのことも含めて怒りが募った。

 

 

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「鬼教官」の容赦なさ

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5つの人格の中で、この「容赦なさ」に

最も近い存在が、「鬼教官」だ。

 

彼は「べきねば」の塊で、不条理なことを

当たり前のように言ってくる。

 

 

「苦言を言うのであれば、厳しい言い方を

しなければならない。 

内心怒っているのに、穏やかに接するなんて、

人を騙すようなものだからだ。」

 

「一度厳しいことを言ったのだから

そういうキャラで居続けなければならない。 

一貫性がなければならないからだ。」

 

こんな風に、何かと理由をつけては、

厳しくあり続けることを要求するのだった。

 

 

彼の全盛期は10年くらい前で、

当時の職場で猛威を奮っていたが、

そうしたやり方が自分を追い込み、

苦しさから周囲との軋轢を生み、

悔しい思いをするようになってからは、

勢いが落ちた。

 

 

さらに、「心理的安全性」という言葉を

知ってからは、複雑な思いを抱くようにも

なった。

 

「そんなものは甘やかしだ!」と

一蹴したくなる衝動を感じながらも、

もし、私自身がそれを経験できていれば、

「鬼教官」が生まれることもなかった

のではないか、とも思った。

 

「鬼教官」の立場からすれば、

「心理的安全性」というものは、

自分がもらえなかったにも関わらず、

人には与えろと言われる不公平なものだった。

 

 

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「ゲリラ」の容赦なさ

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追い込まれたときの実働部隊である

「ゲリラ」は、バトルワールドの住人なので、

そもそも容赦するも何もない。

 

「やるか/やられるか」で生きているからだ。

 

 

「鬼教官」が、自分と対等か目下の人を

善悪の基準でジャッジするのに対し、

「ゲリラ」は、力がある人や目上の人に

対する恐れや不信感、反骨心で動いている。

 

言わば、「反権力」の象徴だった。

 

17歳だったあの日、父を糾弾したのは

この「ゲリラ」だったのだと思う。

 

 

「責めるのは泣き寝入りしないためだ」

と「ゲリラ」は言う。

 

まともなことを言っても、

居直りや憎まれ口で一蹴されてしまうから、

そうならないよう相手を追及する。

 

「責める」ということは、ヒドイことや

ズルいことをされた側の人間が、

勇気を出して声をあげることであり、

正当な権利を行使するという点では

良いことなのだ、と思っていた。

 

 

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まともなことを言う以前に

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けれど、ここでひとつ疑問が残る。

 

当時、17歳の私が父に言ったのは

「まともなこと」だったのだろうか?

 

そもそも言うこと自体、

できていなかったのではないか?

 

 

あのときは、父にそれ以上何も

言わせないようにするために必死だった。

 

「攻撃が最大の防御」という言葉があるように

自分の考えを主張することよりも、

父の矛盾を指摘することが目的になっていた。

 

 

その背景にはいろんな想いがあった。

 

不本意なことを「言わされている」

という悔しさ。

 

あれだけ偉そうにしてきたのだから

立派であるべきはずの親が、

実は正しくなかったことに対する

裏切られたような気持ちや軽蔑。

 

 

そんな想いが渦巻く中、

私は泣きながら怒っていた。

 

「そんな言い方じゃわからない」

と言われても、やめなかった。

 

そもそもあれは、相手に理解してもらえる

ように伝えるという類の話ではなかった。

 

「この状況がおかしいのだ」ということを

表現するためのものだったのだ。

 

 

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ジレンマを抜けるために

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こんな風に、これまではずっと、

やられる側=被害者の立場から

父のことを見ていたけれど、

心のどこかでは、罪悪感もあった。

 

それは、自分の容赦なさが父を追い込み、

居直りという醜い態度を取らせてしまった

のではないか、というものだった。

 

一方で、その罪悪感や倫理観の強さが、

「やられっぱなし」の状態を

作ってきたのではないかと考えると、

引き下がることもできなかった。

 

父だって、気にいらないことに対して

容赦なくやってきたんだから、

因果応報だとも思っていた。

 

 でもやはり、罪悪感はぬぐえない。

 

 

自分の容赦なさと改めて向かい合ってみて、

こうしたジレンマがあったことがわかった。

 

では、ここからどう抜け出すかだ。

 

結局は、反応の源になっているところを

一つひとつ取り除いていくことしかない。

 

 

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「鬼教官」が生まれたきっかけ

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まずは「鬼教官」だ。

 

彼が生まれたきっかけは、父の中に

もともとある怒りや不安や疑念を、

ぶつけられてきたことによる。

 

「苦言を言うのであれば厳しい雰囲気で

なければならない」というのも、

そういうものだと定義しなければ、

自分が父から受けたことはなんなのだ、

ということになってしまう。

 

だから、「当たり前のこと」「良いこと」

と思い込むことで、納得してきたのだろう。

 

でも今は、「人に優しくできない人の

言い訳」のようにも聞こえる。

 

 

また、いつからか、

 

「自分がされたんだから、

人にしたっていいでしょう?」

 

「自分のことは考えてもらえないのに、

相手のことは考えなきゃいけないの?」

 

という声も時々顔を出すようになった。

 

 

その声は、

「されて嫌なことは人にしてはいけない」

「人を悪く思ってはいけない」

という「修道女」の主張によって、

封じ込められてきた。

 

そんなときに威圧的な人や厳しい人を見ると、

甘えている人と同じくらい、怒りを感じた。

 

自分がそれをすることに、

NGを出しているからだ。

 

 

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「鬼教官」の無念さと痛みを解明する

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厳しい雰囲気を醸し出さなければ、

と思うのには、

「そうしないとなめられる」

という恐れも関係していたと思う。

 

その奥には

「まともに言っても通じない」

という諦めもあった。

 

実際、やんわりと苦言を言ったときに、

笑って一蹴されたこともあった。

 

 

ただ、そこで諦めるのではなく、

 

「ちゃんと聞いて」

「責めないようにやんわりと伝えてるんだよ?

はっきり言わないとわからないの?」

 

とでも言えれば、違った展開になったかも

しれない。

 

 

同様に、相手から怒りをぶつけられたときも、

 

「そんな言い方はないよね」

「頭ごなしに自分の価値観をおしつけるな!」

 

と言えればよかったのだろう。

 

 

しかし、実際に私がしたことは、

彼らの声を押し返さずに、

自分の内側に入れてしまったことだった。

 

その結果「鬼教官」が生まれた。

 

 

今更それを悔やんでも仕方がない。

 

今、私にできることは、

ある意味汚染された「鬼教官」の声を

聞くのではなく、彼の背景を理解し、

その上でおかしいと感じることは

拒否することなのだと思う。

 

強く激しく拒絶する必要はない。

優しくてもはっきりと言うことはできる。

 

ただし、自分の中で「言うこと」に対する

「許可」を出せさえすれば。

 

 

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「言うこと」に対する恥と恐れと罪悪感

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「言うこと」は私にとって大きな課題だ。

 

なぜだかいつも、罪悪感と恥の意識とが

ちらつく。

 

 

思い返してみると、

子ども時代に学校という集団の中で、

人との会話に入れなかったことが、

影響しているように思う。

 

「鬼教官」と「修道女」は、

当時からもう存在していたから、

感情自体が抑圧されていたし、

「自分の声は届かない」という

諦めもあった。

 

また、家庭においても、

思ったことをそのまま言うと、

「わがままだ」と批判されたり、

笑われそうだと思ってできなかった。

 

幼少期から続いているものなので、

かなりリアリティのある恥の感覚だ。

 

 

それ以外に考えられるのは、

「相手にとって都合の悪いことを言うこと」

に対する「恐れ」だ。

 

私から都合の悪いことを言われた相手は、

こんな風に振る舞うことが予想される。

 

・感情的な反発心から私を攻撃する。

 

・被害者のように振る舞い、私を悪者にする。

 

・居直りや憎まれ口といった醜い態度をとる。

 

 

相手が動揺する姿を見ることも、

罪悪感が刺激されて嫌だった。

 

 

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こうして言えなくなっていった

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こんな風に、言うことに対して

罪悪感や恥の意識があったので、

何かを言う状況になると、

「言わされている」と気持ちから

相手を責めたくなった。

 

はっきりと言えない分、

「崩れる」といった態度で、

「異変」を表現しようとした。

 

そのうち、「自分の本心を伝えることは、

相手にとって都合の悪いことである」

と、思うようになっていた。

 

我慢して言わないでいることで、

相手を楽にさせてあげているのだ、

とすら思っていた。

 


だからだろうか、

いつからか「言うこと」に対し、

「他者からの承認」を求めるように

なっていた。

 

相手から何度も訊かれないと、

言ってはいけないように感じていた。

 

それはおそらく、自分の本心自体を

よくないものと捉えるようになっていた

からだろう。

 

 

こうしてますます「言えなく」なって

いったのだった。

 

 

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恐れを生み出す解釈を検討してみる

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「言えない」理由を辿っていったら、

幼少期のセルフイメージと、

相手の反応を恐れて避けようする

2つの道筋が見えてきた。

 

セルフイメージについては、

「今はもう違う」ということを、

自分自身に浸透させていけばよいだけな

気がする。

 

 

一方、相手の反応に対する恐れは、

一筋縄ではいかなそうだ。


客観的に見れば、

悪い状況ばかりを想定し、

相手の反応や振る舞いを

「醜い」とジャッジすることで、

事態を複雑にしているようだ。

 

ジャッジしているのは、

「鬼教官」や「修道女」の厳しい目だ。

 

 

けれど、相手のふるまいに対する

彼らの解釈は、絶対的なものなのだろうか。

 

冷静さを欠いていて、話が聞けない状態

だったのかもしれない。

 

思い込みからおかしな反応を

してしまっただけかもしれない。

 

単に幼稚なだけかもしれない。

 

これらは「醜い」ことなのだろうか?

 

 

「醜い」というジャッジをしているとき、

私の中での相手は、

「都合の悪いことから逃げるために、

私を抑えつける恐ろしく強大な存在」

というキャラ設定になっている。

 

そんな相手の反応を避けるために、

どうにかしようとしたり、

自分の価値に絡めて捉えるところが

私にはあるようだ。

 

 

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感情や反応を他者のせいにしない

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こうした現象を一言で言えば、

「自他の境界線が薄い」ということになる。

 

「感情は本人の持ち物」

という考え方に照らし合わせれば、

 

相手の怒りや動揺を自分のせいにするのも、

自分の言動や葛藤を相手のせいにするのも、

どちらもおかしい。

 

 

17歳のときの話を例にすれば、

仮に私に追い込まれたからといって、

憎まれ口で返すかどうかを決めるのは

父自身だ。

 

確かに私の言い方によっては、

父の感情に変化はあったかもしれない。

 

けれど、それをどう解釈し、

相手にどう伝えるかはまた別の話だ。

 

 

もし誰かが、

「お前が俺にこんな態度を取らせて

いるんだ!」と言っていたとしたら、

その人は自分の判断を相手に委ねて

しまっていると言える。

 

実際、そうしたことを人から言われて、

違和感なく受け入れてしまっていたことも

過去に何度かあった。

 

それが当たり前になっていたから、
私自身も人に同じことをしていたのだろう。

 

「言いたくないのに言わされている」

というのがまさにそれだ。

 

 

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本来の自分を取り戻す

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結局は、

人の反応に対する自責が罪悪感を、

人の反応への恐れが恥の感覚を

作り出してきたのではないかと思う。

 

それを止め、ノーを表明することで、
自分が背負うべき本来の責任を取り戻す

ことができそうな気がする。

 

 

「鬼教官」も「修道女」も、

私を守るために生まれた存在ではあるけれど、

もう彼らの「指示」は聞かなくていい。

 

人の反応を自分に関連づけるのもやめよう。

恥も罪悪感もいらない。


過去の無念さは、

崩れることで表現するのではなく、

こんな風にアートと文章で癒していこう。


「言える自分」を解放しよう。

 

そうしたら、きっと、容赦ない自分が

存在する必要はなくなるんじゃないか。

 

 

「心理的安全性」は、

まず自分が自分の内側で作り出して

いくものなのだと思う。

 

 

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アートについて

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とにかく黄色だった。

それ以外の色は目に入らなかった。

 

自己主張の色、希望の色。

 

そんな意味が思い浮かぶけれど、

意識していたわけではなく、

ただ、欲している色を手に取った。

 

 

以前は、「尖った色」として

黄色を使っていた。

 

曼荼羅の花は、同じく尖った印象の

5枚にすることが多かった。

 

 

けれど今回は安定の6枚。

 

6という数字は、5つの人格+私を

表しているのかもしれないな、

と描いている最中に気づいた。

 

それらが統合されて、

新しい自分が生まれる。

 

 

今回、「容赦ない自分」を卒業することを

決めたけれど、過去の自分に関しては、

「そうした一面もあった」と

受容してもいいのかもしれない。

 

「一度そうなったんだから、

ずっとそうでなければいけない」

と「鬼教官」は言いそうだけど、

そんなことはない。

 

新しい自分で出発だ。

 

 

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🌙 こちらもオススメ 🌙

 

自分の中で5つの人格がせめぎ合ってきたこと 🔽

 

 

感情の責任について 🔽

 

 

子ども時代に言えなかった人へ 🔽

 
 

 

 

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ここまで読んでいただきありがとうございました💖

 

ミカヅキ🌙さと子

 

 

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