犬猫にとっての幸せってなんだろうか。 | イニシャルK のブログ

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夏の暑い日も犬小屋のなかで、じっと耐えるようにいつも丸くなった1頭の黒い毛をした中型犬が居た。

営業・配送の仕事柄、車で移動する。
ごくたまにしか通らない道なのだが、通過するときには目配りをしていた。

昨年12月はほとんどこの道を通る機会がなく、
今年の仕事始め、久しぶりに明るい時間に、
前を走ることができた。

ところが、

・・・居ない。

寒い冬だから飼い主さん、
やっと家の中に入れてくれたのかな…

なら、いいんだがなぁ…

気になり、それからしばらくして、遠回りして前を通ってみた。

・・・やっぱり居ない。

昼なんだから元気でいてくれるなら、ここにいるはず…
もしかすると、体調を崩して入院したのか…


それからまた敢えて通ってみた。

・・・やっぱり居ない、気配がない。

                                             まさかあの子…

どうみても完全外飼いだったあの子、

真夏の暑い日をじっと耐えていたあの子、

あの子の姿がどうして見えないのか、
気になる日が続いた。

あの子の生きた歴史を、
どうしても確認したかった。

あの子が居ないことに気がついて約2週間くらいして、日没後6時を過ぎてようやく訪問することができた。

『私はお家の前をたまに通らせて頂いています。我が家にも犬が居るので、飼育されているわんちゃんをお見かけして気にかけていましたが、最近姿を見ないので気になり、よろしければお話をお聞かせ頂けれたらと思いお伺いした次第です。』

そう切り出すと、
奥様がお返事をしてくださった。

『あの子は年末に急に亡くなったんです。
                                       クリスマスのころ…』


(・・・やっぱりあの子は亡くなっていた。)


『亡くなる数日前急に前足が立てなくなりましてね、亡くなる前には起き上がれなくて、買い物から帰ると、夕方亡くなってたんですよ。』


(・・・あの子は看取られることなく独りで旅立ったんだ…)


『主人の知り合いの猟師さんのところに、約4年前の春、子犬が産まれましてね。その方が保健所に連れていこうとしてたらしく、主人が全て預かって帰って、飼い主を探したんですよ。』


『そのうちの1頭があの子で、主人が飼い主さんを探して声かけて、他の子たちもみんな飼い主さんに貰われました。でも、2頭は交通事故で死んだと聞いてます。あと1頭は多分生きてると思います。』


『最初はね、子犬だから、家の中で一緒に寝たりしてましたけどね。だんだん大きくなるとそう言うわけにはいかないから、外に出しました。』


『猟犬の子供だからね、たまに逃げたりもしてね。夜には鹿とかこの辺りは出るから、よく吠えてね。ご近所から、夜吠えてうるさかったって、苦情を言われることもよくありましたよ。』


『私たちが高齢で、あの子は力が強いから、怪我したらいけないし、最近は散歩にも行くこともありませんでした』


『あの子は、前飼ってた犬の墓の横に埋めてやってます。前に飼っていた犬は10年は生きたんですけどね。』


初対面の私に奥様は、
あの子の生きてきた歴史を語ってくださった。


・・・あの子はつまり、4年と9ヵ月という短い生涯を終えたことになる。

そして、あの子の兄弟は、それよりもまだ若い年齢で、不慮の交通事故によりこの世を去った。


このわだかまりはなんだろう。

外飼いであることも、
それ故の飼育内容も、そしてその結末も、
正直言って想像はしていた。


ご主人は、飼育放棄しようとした飼い主から、
小さな命を譲り受け里親探しを果たされた。

でも…考えるべきことはそのあとだ。

あの子の晩年には、引きが強いという理由で、散歩にすら連れていってもらえずこの世を去った。

近年、適正時期にきちんと投薬していれば
フィラリアは予防できるまでに薬は進化した。

また、感染症に対しても、ワクチン接種によって対処できる。

でもそれは、
全て飼い主の認識ひとつで、どちらにも転ぶ。

愛護センターに収容された迷子犬の聞き込みをしたときも、こんな方がおられた。

『子犬をもらってきたんです。でも、
 何年かしたら急に死んだんですよ。』

この子も外で飼われていたそうで、狂犬病の予防接種は受けても、ワクチンやフィラリア予防はしたことはないらしい。

『可哀想だからもう飼いたくないです。』

そう仰っていた。



近年動物医療やフードなどの進歩に伴い、犬の平均寿命が15年と言われる時代において、先天的な疾患を持ち合わせていたケースも憂慮はできるかもしれないが、5年も生きることができなかったという要因に、後天的な要素(飼育されていた環境や飼育内容など)が関係していることは否定できないと思う。

この世に産まれ、巡りあった人間によって助けられた命が、若くして亡くなったことをとても残念に思う。
そばにいる飼い主の高い飼育意識によって、
その命はもう少し…、
いや、もっとこの世に生きることができたのではないだろうか。

散歩に連れていってもらえることもなく、
犬小屋から離れて歩き回ることもできず、
適正な医療も施してもらえず、
ましてや、家族の一番すぐそばで甘えることもできず、その天寿を終えた犬にとって、
果たしてそれは『しあわせ』な生涯であったと言えるのだろうか。

短い鎖に繋がれ、ただ生かされていることが、
『しあわせ』だと言えるだろうか。
(これは許容を越えた行政・民間の収容施設においても同じ)

一見同じような境遇で繋がれた犬は、
私が営業で回るコースに、黒柴をはじめ、
ゴールデン2頭、他に雑種の中型犬が約5頭は
確認できる。

その子達の詳細な飼育内容は、
一見しただけでは判断できないが、
車庫に繋がれていたり、犬小屋以外に屋根はない環境であったり、飼い主と戯れている姿は一度も目撃したことはなく、せめて散歩には連れていってもらえてるだろうとは思うが、排便を居住区にせざるをえない犬もおり、いつも一頭で小さくなっていて、どうみても、自由を奪われているようにしか私には見えない。

せめてもう一頭、気の合う犬や猫などと過ごさせてあげるだけでも、犬にとってはそのストレスや不安は高い可能性で、和らげてあげることができる。
犬はそもそも群れで生きる動物であり、自分のリスクを顧みず、他者を援護したり、グルーミングをはじめ、お世話をすることを本能として持ち合わせた動物なのだから。

もしそれが無理なら、
家族がその群れとなる意識で、家族の一員として
飼育犬を迎えお世話してほしいと思う。

母屋の家族から離れたようなところで、
ひとりで終日過ごさなくてはならない犬を目撃し、その気持ちを想像したとき、
私はとてもとても哀しい気持ちになる。



最近、よく耳にするようになってきた、

      『5つの自由』

   1) 飢えと渇きからの自由
   2) 苦痛やけが、病気からの自由
   3) 不快からの自由
   4) 正常な行動をする自由
   5) 恐怖や苦しみからの自由

動物のしあわせ、良質な生活、福祉の実現には、

飼い主をはじめ、行政・民間の収容施設、
さらには繁殖を業とすることに携わる者に至るまで、
この『5つの自由』を基準にした飼育の実行が果たされなくてはならない。

ことに、犬と猫は、
長年人間の生活圏のなかで、当然のこととして、一緒に生活してきた永い歴史を持つ。

時代の変化と共に、
今や犬と猫は、

  『家族の一員(コンパニオンアニマル)』 
               【伴侶動物】

という認識に至る。

世論において、『犬猫の殺処分反対』が叫ばれるようになったのも、
今や犬と猫は、『社会の一員』という認識に至るからだと言っても過言ではない。


社会において、個人を繋ぐ不可欠なもの、

それは、

『相手を思いやる気持ち』だと、

私は思っている。

それは、
最も最小で最も身近なコミュニティー『家族』においても共通する。

お互いの配偶者にも、
お年寄りに対しても、
子供に対しても、

そして、コンパニオンアニマル(伴侶動物)である犬猫に対しても。


これまで私たちの人間社会は、
人間と、
伴侶動物(犬猫)を切り離した、まったく別次元での、しあわせの実現を目指していたと思う。

でも私たち人間の繁栄のそばにはいつも、
犬猫(伴侶動物)が居てくれた。

疲れたときも、悲しいときも、寂しいときも、
楽しいときも、嬉しいときも、
いつも生活圏のそばで、
共に一喜一憂しながら居てくれた。


私たち人間がしあわせであり続けたいなら、
犬猫(伴侶動物)たちも、共にしあわせでなくてはならないと強く思う。

人獣共通感染症によるものと思われる死亡事例が確認される昨今、

『動物を守ることが人間を守ること』に通じる近道であることに私たちはきづかなくてはならい。

それが、共存共栄であり、人間と伴侶動物である犬猫のあるべき姿であると思う。



最後に、

人間にとって、
犬猫たちにとって、

『しあわせ』の概念を言葉で表すとしたら、

私は、

『いつもそばに居てくれて、
  いつもそばに居てあげれること』

そう、表現したい。

その生涯を終えるその瞬間まで、
ずっと我が子達のそばに居てあげたいと思う。

そして我が子達に、

『いつも一緒にそばに居てくれて
           ありがとう。
    お父さんはしあわせだったよ。』

そう言って、
お別れしたいと思っている。