ローリーは自分の話を必死に耳にいれながら頭の中まで運びきれずにいる社に解りやすい例え話を色々と考えた。だが、その全てが日常一般には想定外の内容なのではないかと思われ、今の社に理解を求めるのは困難だと結論付けた。ならば、せめて今の蓮とキョーコの状況がイレギュラーで周りが考えているよりも本人達にとって多大なダメージを与えているのだという事実だけでも把握させるべきだと考えた。

彼、社は敦賀蓮をマネジメントし、支える存在。今はキョーコの存在も社に委ねる場面もある。そんな立ち位置にいる社には全てを理解は難しいにしても、把握と共感を望んでいるからだ。

『社、お前はペットを飼った事があるか?』

「はぁ。実家にアメショとテリアがいます。」
「ペットが来たとき、まず何をした?」

「えっと…、名前を付けました。」

「そうか。まぁ普通そうだろうな。それなら社。お前はこれから食べようとしている牛にもしも名前が付いていたら、食べる事ができるかい?」

「はぁっ!?」

その突拍子もない質問に社は目を丸くして口をあんぐりと開けて目の前の絶対の存在を凝視した。

「『これは幸子の肉だ、しっかり食べろ』と言われたらどうだ?」

「…、あの…??」

「普通は食べられないものだ。」

「はい…。」

「なんでだ?」

「えっ?」

社は正直ローリーの言わんとしているところがさっぱり理解できずもしかしたら今の自分はローリーに遊ばれているのかもしれないと苛立ちまで感じ始めた。

「名前があるからだよ。『牛』は名詞だが『幸子』は固有名詞。唯一その一頭の牛を示す名前だからだ。」

「固有名詞…ですか。」

「そうだ。自分の名前を持った時点でそれは社会性を持つ。社会性を持つ存在を俺達は存在に扱う事が出来なくなる。」

確かにそうかも知れない。

「『名前』という不自由で俺達は自分の存在を確認しているんだ。遠く離れていても名前を呼ばれれば自分の事だと解るだろう。だから俺達は俺達でいられる。『名前』は社会性の第一歩なんだ。

今の蓮とキョーコにはその最低限の不自由すらないのだとローリーは続けた。不自由は窮屈で不快なものだが、時として寄り代となり、自身を支えてくれる土台になるのだ。

「俺は『名前』とい横軸と『ステータス』とう縦軸を与えた。そして奥行きを表す三つ目の軸は『環境』。まぁ、平たく言えば舞台だな。幸運な事にあいつらには共演者がたくさんいてくれるからな。三本の軸を与えたから、あいつらはやっと立体になった。だが、フォログラムみたいなもんだ。これからあいつらが空っぽの器の中に自分を詰め込んでいかなきゃならない。普通なら生まれてからずっとその作業を繰り返して来ている。それが経験で学習で記憶だ。そして、今のあいつらはその全てを手放した…。」

ローリーの真剣で憂いを秘めた表情に社は固唾を飲んだ。

「『人類総俳優説』ってのがある。人はみな自分という役柄を演じているという説だ。俺はローリー宝田を、お前は社伸一を、そして最上くんは京子、蓮は敦賀蓮を演じている。そう捉えれば自然な事だ。何もあいつらだけが特別な訳ではないだろう?」

社はローリーの話に相づちを打ちながら、どこかでうまく言いくるめられていると感じていた。ただ、今の蓮とキョーコにとって、ローリーが出した命令は二人にとって決して悪いことではないのだという事だけは解ったような気がした。

「俺は見守る事しか出来ないんですね…。」

社は床に視線を落としたままそう呟いた。独り言のような小さな呟き。

「お前だけじゃねぇ。今、あいつらに俺達がしてやれる事はあまりにも少なすぎる。俺達は非力なものだ…。」

社はローリーの言葉に驚いてパッと顔を上げてローリーを見た。そこには色々な苦労や困難を乗り越えてきたからこその、達観した大人の顔があった。

「お前はあいつらをよく知っている。いつも蓮の隣にいて、蓮と最上君の関係もよく見てきただろう。だから解ることもあれば苛立つ事も多いと思う。だが、支えてやって欲しい。これはお前にしか出来ない事だ。仕事のパートナーとして、友人として。俺はお前に頼みたい。」

「はい。出来る限りのサポートをします。社長に頼まれなかったとしても俺は精一杯二人を支えるつもりでした。仕事のパートナーであり友人。いえ、可愛い弟と妹ですから。

「頼んだぞ。」

「はい!」

ローリーをまっすぐに見つめて答える社にローリーは小さく頷く。

「それでは、弟達がまっていますので、これで失礼します。」

そういうと社はすっと席を立った。

「あぁ、ご苦労だったな。」

「失礼します。」

社は一礼すると部屋を出た。残ったローリーは小さく息を吐き、ソファーに深く体を沈めた。新しい葉巻に火をつけて大きく煙を吸い込む。そして大きくゆっくり煙を吐き出した。

生き地獄をやっとの事で乗り越えた蓮、失った人として大切なものをやっと取り戻したキョーコ。二人は手に手をとってこれからの人生を歩くはずだった。これまで失ってきたものを取り戻して余りある幸せを手に入れて、これからを生きるはずだった。可愛い子供達の成長を我が事のように喜んだのはつい先日の事。

そして、あの事故…。

にわかには信じられなかった。だが、受け入れる事しか出来なかった。自分が何をしてやれるのかを考えるだけで精一杯だった。だが、一個人として関わるにはローリーの立場や背負うものは大きすぎて、『社長』としての配慮が精一杯だった。だから、社や奏江の存在はありがたかった。そして、彼らの有能さに感謝している。この逆境を乗り越えてすべてがいい方向に流れるようにと、らしくなく神様に祈る思いのローリーは、灰皿で葉巻を揉み消して席を立った。



蓮とキョーコの事故が報じられてから時間は着実に流れ、巷ではそんな事があったという事実さえ忘れ去られていた。事故当初はキョーコへのバッシングもあり、事務所も対応に追われていたが、それもほんの一時の事だった。何より、蓮もキョーコも事故以前と変わりなく仕事をこなしていたし、それ以降にメディアを騒がすような情報は飛び交わなかった。先日の事故で変わったのは敦賀蓮の好感度がそれまで以上に上がった事と、女優としての京子の評価が格段に上がった事だ。事故自体は不遇な事だったが、結果として二人にとって、そしてLMEにとって、全てはいい方向に進んでいる。いや、そう見えた、表面上は。

実際のところ、二人の記憶は戻っておらず、精神的にかなり抑圧されていた。社長ローリーの暴力的とも思える業務命令によってそれぞれの役柄を演じる敦賀蓮と京子。二人の現状を知る近しい面々は最初、その奇異な対応に否をとなえる傾向だったが、その命令を受け入れ、言われるままにこなしていく二人に感心し、協力し、支えていく中で、ローリーの方針に賛同するようになった。

社はまだ納得できていなかった。長い間蓮のマネジメントを請け負い、蓮との関わりは公私共に一番深い社。社にとって蓮はマネジメントする担当俳優であり、可愛い弟のような存在だ。社はキョーコに対しても彼女がLMEに来た頃からよく知っていた。最初、険悪極まりなかった蓮とキョーコの関係。それが、自分が風邪でダウンしている間にちょっぴり微笑ましいものに変化していた事に驚きと喜びを感じたのを昨日のことのように今も思い出すだけで顔がにやけるのを禁じ得ない。蓮の等身大の表情や仕草に驚き、そんな蓮の一面を引き出したキョーコに脱帽した。そして恋愛音痴と恋愛拒否の高くて大きなハードルを越えて、晴れて恋人同士になった二人を一番近いところで見て、まるで我が事のように喜んだ自分。蓮とキョーコは社にとって本当に大切な家族のような存在なのだ。

そんな二人が記憶を失うという大変な事に局面に至って、『演じる』事になんの意味があるのか、どれ程の負担を伴うのか、まったくゴールの見えない命令に困惑を越えて怒りを覚える程になってしまっていた。だから、社は蓮がドラマの収録をしていて割とまとまった時間離れられるタイミングで゛セバスチャンにフォローを頼んで社長室を訪れた。

記憶ってのはあって当然でない事なんて想定できねえもんなんだよ。」

ローリーはゆっくりした口調で、対面して立ったままの社に話しかけた。

「えっ…?」

「お前、名前はなんだ?」

ローリーは目で社に座るように指示しながら問いかける。

「社。社伸一です。」

社はそう答えると促されるままなソファーに浅く腰かけた。

「仕事は?」

「LMEで敦賀蓮のマネジメントを…」

「そうか。年は?」

「…、あの、社長?」

「ん?」

「今はそんな事を聞いているんじゃありませんが…。」

「そうだな。じゃあ。あいつらに同じ質問をしたらどうなると思う?」

「…っ!」

「そう。記憶があるから自分が何者かも解る。お互いの関係性も立ち位置も。あいつらはその全てを一瞬で失った。そして取り戻せずにいるんだ。」

「…はい…。」

「俺達があいつらにしてやれる事は少ない。お前達は近くにいて直接手を差し伸べる事が出来るだろうが、結局はあいつらが自分自信でなんとかしなきゃならんのだ。だから、俺はあいつらに不自由を与えた。名前とステータスと環境を。至極暴力的に思えるだろうが、」

社は困惑してしまった。ローリーの話す内容を俄に理解することが出来ない。ただただ、自分が思っているよりも事態が深刻なのだという事はローリーの声の調子と表情から読み取れた。
「…どういう…事…で…すか?」

社がなんとか絞り出せたのはこの言葉が精一杯で、ローリーは小さく頷いてから話をるのだった。。