偉人の子供時代の習慣を深掘りする–その48「近代社会の子育てを超えて」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今の「学び」を「〇〇のため」で終わらせずに、「〇〇とともに」にしていくために、問題意識を教材化して、日本の教育システムで閉ざされたものを開き続けます。



6月3日の一読は第6章の続きで「人はけっして妥協してはならない――サッチャー」までです。前回のケネディ家と同様に、今回の内容もあまり共感できるものではありませんでした。


何が違うと感じるかと言えば、生き方の背景がそもそも異なっていると感じました。


近代社会ではごく自然にやってきたことが現代では必ずしも通用するとは限らないという気づきが深まりました。


サッチャーの次の言葉が印象的でした。

「私の家では、誰も決して怠けることはなかった。ひとつには、怠けることは罪だったからであり、もうひとつには、しなければならない仕事がたくさんあったからであり、さらには、 私たちはともかく働き者だったからである。私は店で必要なときには、いつでも手伝いをした。それだけでなく、店のカウンターの後ろで何時間も過ごしながらも、時計が動くように家事をすべて切り盛りすることがどんなことかを母から学んだのである。私たちの家には、戦争前にはメイドがおり、さらに週に一、二日は洗濯をするお手伝いさんも来たが、母は多くを自分で片付けた。もちろん、今日の家庭よりやることはずっと多かったのである。母は男物のシャツの正しいアイロンの掛け方や、刺繍を損なわずにプレスする方法を教えてくれた。」(231ページ)


かつては日本でも似たような家庭環境が多かったと思いますが、現代のように技術進歩があって、仕事の概念も変わり続けている中では、従来の価値観が通じなくなりやすいと強く感じました。


もちろん、戦争の危険性や貧困の問題など、いつの時代にも起きることは変わっていないと思いますが、日常生活そのものは働き方も含めて大きく変わっていることを踏まえて、現代の価値観を作り上げていく必要を感じています。