『二宮翁夜話』からMIKするーその231「善意の研究が逆効果になりかねない」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今の「学び」を「〇〇のため」で終わらせずに、「〇〇とともに」にしていくために、問題意識を教材化して、日本の教育システムで閉ざされたものを開き続けます。


今日の一日一読は「〔231〕草根を頼らず積殼をする」でした。一昨日の夜話では飢えても草根木皮を食べないということが取り上げられていましたが、その時の理由としては、無理にそれらを食べるようにすると病気になりかねないからだということでした。

今回の夜話も同じように草根木皮を食べないということが取り上げられています。違いがあるとすれば、食べることを推奨する側として世間の学者というものが出てきます。

「世間の学者は、草の根・木の葉などを調べて、これも食えるあれも食えるといっているが、私は聞こうと思わない。」(299ページ)

尊徳がなぜ学者の話を聞かないかと言えば、「自分で食ってよく経験したものでないから、はなはだおぼつかないもの」(同上)だからです。いくら学者が学識を持って力説したとしても、それは体認自得されたものではないから信用できないという話です。鋭い指摘としか言いようがありません。

この夜話では、さらに重要な指摘がありました。それはそもそも、草根木皮を食べれるものとして当てにすること自体に問題があるということです。その理由として、それらを当てにしすぎると「凶年の用意が自然と怠られて、世の害になる」(300ページ)と言うのです。この指摘には脱帽しかありません。

それにしても、なぜ世の学者はそのような研究をしようとするのかということを考えてみた時に、単なる知的好奇心か、あるいは、何とか貧困を脱せられる手立てを考えたいという善意から来ると思われます。少しでも困っている人の役に立ちたいという善意の学者がいたら、誰も目をつけていない、良いものを見つけることができれば、願ったり叶ったりでしょう。しかし、その行動自体が、別な問題を生んでいることに気づけない可能性があるのです。もしこのようなことが起きていたとしたら、かなり深刻な問題だと言えます。

尊徳はそんな危険性があるから、「凶歳飢きんの惨状のはなはだしさを、坊さんが地獄のありさまを絵にかいて老婆をさとすように、懇々と説いて聞かせて、村ごとに積穀をすることを勧めるほうが、よほどまさっている。」(同上)と言い切っています。本当に実のあることとは何なのかということを考えさせられました。