『二宮翁夜話』からMIKするーその177「骨を折り続けることの大事さ」 | 問題意識の教材化(MIK)ブログ

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今日の一日一読は「〔177〕現代の文化は前代の推譲」でした。今回は日本語の「骨を折る」ということをじっくりと考えられる機会になりました。

まず、尊徳は土葬した人間の骨で、長い年月残りやすいものとして頭蓋骨とすねの骨があることに注目します。なぜこの二つが長持ちするかについて、尊徳は次のように考えていました。

「頭はからだ全体の上にあって、最も功労の多い頭脳を覆っており、寒さ暑さを受けることも一番多い。また、すねはからだの全体の下にあって、全体をささげ持っており、功労が最も多い。人間が生きている間に功労の多かった所の骨が、死後百年を経ても朽ちずにいるということは、感銘すべき道理だ。」(234ページ)

この捉え方は事実かどうかはともかく、このような受け取り方をすることで、何が感じられるかという点が大事だと思います。尊徳のいうように、功労が多いものが長く残るということは納得しやすいことです。では、どうやれば功労を多くすることができるか?

それは「骨を折る」ということをすることです。この日本語は文字通りの意味以上に、深みがあって面白い言葉だということに気づかされます。英語だと、努力という言葉を使わないとこの表現はできないからです。よくよく考えてみれば、日本語には身体の部位を使った表現が多いです。

身を削る・粉骨砕身する・身を粉にする・心血を注ぐ

努力をするということを意味する言葉に身体で表現されている点が興味深いです。口でいくら努力していますと言っても、行動として「骨を折る」ほどのことをしていないと、生まれない表現です。

尊徳は「おおよそ人の勲功は、心とからだの二つの骨折りでできあがるもので、骨を折ってやまないときは必ず天助がある」(同上)と言います。

ここの言い方は努力は報われるという個人的な内容ではなく、後世に残り続ける文化的な意味合いが強いことには注意する必要があると思います。たしかに、今日残っているもののどれもが、ちょっとした努力でできたものはないと言っていいと思います。その意味で、骨を折り続けることが後の世に素晴らしい贈り物ができると言えます。

思い起こせば、努力という言葉はよく聞く言葉ですが、骨を折るという言葉はあまり聞かない気がします。改めて、日本語の表現の豊かさを活かしきれない自分自身がいることを痛感しています。