6.ヘイオン
ただただ、私にとっては。奇跡のような穏やかな時間が流れ続ける
シノザキさんは、判っていたけれど、すごいお金持ちだった。
知らない人はいないであろう、とある大グループ会長の末息子で。
シノザキさんは、息子を愛する、父親から
あてがわれた箱庭で、暮らしていた。
郊外に建つ億ションの一室。
シノザキさんは、ここから殆ど外へ出る事が出来ない。
閉じ込められている訳ではない。
彼は二度、誘拐されかかった事があって。
一度、殺されかかった事がある。
その所為か、外に出ることを極端に嫌がって
閉じこもり始めたのが中学の頃。
お母さんは、周りの目を気にして外へ出なさい、と言い
お父さんは、そのまま引きこもっていても構わないと言って。
どちらも同じ愛情を傾けてくれている筈なのに
そのベクトルがまるで真逆を向いていて
引き裂かれるような思いを、シノザキさんは感じていて。
それから。そんな二人の狭間で疲弊する姿をを見て
たまらなくなったお母さんは、何も言わなくなり
お父さんは、別宅を改装して、シノザキさんをそこへ住まわせたそうだ。
両親の諍いや葛藤を目の当たりにすることがなくなって
申し訳ない反面、とてもほっとしたと、シノザキさんは言っていた。
それから。何度も来た事がある別宅だったとは言え、
住み慣れた本宅にいるより心細く、不安だったそうで。
その頃から、外に出ようと扉に手をかけるだけで、
動悸や、呼吸の乱れ、めまい。
酷いときは、気絶をする事があったらしい。
そのときに、いよいよ本格的に、外に出られなくなってしまった。
コンビニは?と聞いたら、あそこだけは、特別。という答えが返ってきた。
普段は、食料はインターネットで注文しているのを、
たまたま、切れてしまうまで注文を忘れていて。
たまたま、注文した商品が在庫切れで届くのが遅く、
たまたま、受け取ろうとした際に、眠っていたため受け取れなかった。
結局、数日間殆ど物を食べずに過ごし。
そのとき、「あ、自分はこれで死ぬ」と思って
同時に、「これで死ぬのは嫌だ」とも、思ったのだそう。
気が狂ったみたいに外へ飛び出したら、目の前にコンビニがあって。
そこで、男性の年配の店員さんが、にこやかに
「今なら、おでんが70円でーす」と言っていたと笑いながら話してくれた。
それ以来、たまに、ご飯を買い忘れて。
つらい、つらい、空腹の果てに来たときだけ。
そのときだけ、外に出られるのだと。
笑いながら、言ってくれたけれど。
その笑顔はとてもさびしそうだった。
そうして、シノザキさんは。
この、静かな箱庭で、独りで暮らしていた。
いや、訂正。独りと一匹で暮らしていた。
シノザキさん愛猫、ロシアンブルーの雌猫。名前はシャコ。
自分のご飯を頼み忘れても、シャコのご飯は頼み忘れない。
「オレのカノジョ」と呼んで、シノザキさんが溺愛する美猫。
そんな一人と一匹のの生活に私が加わって。
早くも、三ヶ月が経とうとしていた。
4LDKの一室を借りて、住み込みでシノザキさんの身の回りの世話をして。
外へ行く用事を、シノザキさんの変わりにこなす日々。
奇跡的に、平穏で、穏やかな日々。
「シノさん。私のカードケース、見ませんでした?」
私は、シノザキさんをシノさん、と呼ぶようになり。
「ヒナちゃんのカードケース?しらない、かな」
シノさんは、私をヒナちゃん、と呼ぶようになった。
「おかしいな…」
「何か、入ってたの?」
「いえ、パスモの定期と、ポイントカードがいくつか…」
ポイントカードはともかく、パスモの定期券はすこし痛かった。
前の職場の通勤で使っていたもので、もう期限は切れているけれど
隣の駅前にある百貨店に買い物に行くときに、チャージ専用で使っていて。
まだ、残金が600円とすこし、入っていたはずで。
貧乏くさくはあったのだけれど、とても惜しいと思って。
「ん、わかった。見つけたら教える。」
「はい、お願いします」
ソファに身体を埋めたまま、膝に乗せたシャコの背を、シノさんはなで始めた。
あ。はじまる。と思った。
シノさんは、のんびりやで、優しそうに見える。
でも反面、とてもわがままな人だ。
一人にして欲しいとき。話しかけると不機嫌になる。
そのくせ、孤独には耐えられない寂しがりやで。
さびしい時は話しかけないと怒る。
シノさんが一人にして欲しいとき。大体は言葉少なになって、ソファーに沈む。
そんなとき、近づけるのはシャコだけだった。
シノさんが不機嫌になるのは、心臓が縮む想いがする。
だから、なるべく、空気を呼んで。
シノさんの思うとおりに、動こう。そう決めていた。
シヅオに殴られないように、息を潜めていたときに比べれば、苦じゃなかった。
だから今日も、すこし出かけてこよう、って。
そっと冷蔵庫の中を覗いて。足りないものをメモして。
お財布を持って、そっと出よう・・・としたら。
「ヒナちゃん、出かけるなら、画材、お願い」
呼び止められた。
「レンブラントのラウンド 20号。それからホルベインのセルリアン ブルーと…」
いきなり言われて、慌ててメモを取る。
シノさんは、四つある部屋のうち一つをアトリエにして絵を描いている。
シノさん曰く、半分は趣味で、半分は仕事、らしい。
自由気ままに絵を描いているけれど、
仕事と呼べるのはこれしかしていないから、だそうだ。
私が来る前に、画材を購入するのは
インターネットの注文で済ましていたそうで。
でも、それだと描きたい時に手元にない事が多いらしく。
だから、画材を買うのも、立派な私の仕事だ。
私がメモを取り終えるのを横目で見て、
じゃ、頼んだ。と言ったきり、シノさんはまた独りモードに入ってしまったから。
私は、そそくさと、外へ出ることにした。
すこし気難しくて、我侭だけれど、優しい。シノさんとの共同生活。
それは私に、夢のような安らぎを、与え続けた。
<前の話|次の話>
シノザキさんは、判っていたけれど、すごいお金持ちだった。
知らない人はいないであろう、とある大グループ会長の末息子で。
シノザキさんは、息子を愛する、父親から
あてがわれた箱庭で、暮らしていた。
郊外に建つ億ションの一室。
シノザキさんは、ここから殆ど外へ出る事が出来ない。
閉じ込められている訳ではない。
彼は二度、誘拐されかかった事があって。
一度、殺されかかった事がある。
その所為か、外に出ることを極端に嫌がって
閉じこもり始めたのが中学の頃。
お母さんは、周りの目を気にして外へ出なさい、と言い
お父さんは、そのまま引きこもっていても構わないと言って。
どちらも同じ愛情を傾けてくれている筈なのに
そのベクトルがまるで真逆を向いていて
引き裂かれるような思いを、シノザキさんは感じていて。
それから。そんな二人の狭間で疲弊する姿をを見て
たまらなくなったお母さんは、何も言わなくなり
お父さんは、別宅を改装して、シノザキさんをそこへ住まわせたそうだ。
両親の諍いや葛藤を目の当たりにすることがなくなって
申し訳ない反面、とてもほっとしたと、シノザキさんは言っていた。
それから。何度も来た事がある別宅だったとは言え、
住み慣れた本宅にいるより心細く、不安だったそうで。
その頃から、外に出ようと扉に手をかけるだけで、
動悸や、呼吸の乱れ、めまい。
酷いときは、気絶をする事があったらしい。
そのときに、いよいよ本格的に、外に出られなくなってしまった。
コンビニは?と聞いたら、あそこだけは、特別。という答えが返ってきた。
普段は、食料はインターネットで注文しているのを、
たまたま、切れてしまうまで注文を忘れていて。
たまたま、注文した商品が在庫切れで届くのが遅く、
たまたま、受け取ろうとした際に、眠っていたため受け取れなかった。
結局、数日間殆ど物を食べずに過ごし。
そのとき、「あ、自分はこれで死ぬ」と思って
同時に、「これで死ぬのは嫌だ」とも、思ったのだそう。
気が狂ったみたいに外へ飛び出したら、目の前にコンビニがあって。
そこで、男性の年配の店員さんが、にこやかに
「今なら、おでんが70円でーす」と言っていたと笑いながら話してくれた。
それ以来、たまに、ご飯を買い忘れて。
つらい、つらい、空腹の果てに来たときだけ。
そのときだけ、外に出られるのだと。
笑いながら、言ってくれたけれど。
その笑顔はとてもさびしそうだった。
そうして、シノザキさんは。
この、静かな箱庭で、独りで暮らしていた。
いや、訂正。独りと一匹で暮らしていた。
シノザキさん愛猫、ロシアンブルーの雌猫。名前はシャコ。
自分のご飯を頼み忘れても、シャコのご飯は頼み忘れない。
「オレのカノジョ」と呼んで、シノザキさんが溺愛する美猫。
そんな一人と一匹のの生活に私が加わって。
早くも、三ヶ月が経とうとしていた。
4LDKの一室を借りて、住み込みでシノザキさんの身の回りの世話をして。
外へ行く用事を、シノザキさんの変わりにこなす日々。
奇跡的に、平穏で、穏やかな日々。
「シノさん。私のカードケース、見ませんでした?」
私は、シノザキさんをシノさん、と呼ぶようになり。
「ヒナちゃんのカードケース?しらない、かな」
シノさんは、私をヒナちゃん、と呼ぶようになった。
「おかしいな…」
「何か、入ってたの?」
「いえ、パスモの定期と、ポイントカードがいくつか…」
ポイントカードはともかく、パスモの定期券はすこし痛かった。
前の職場の通勤で使っていたもので、もう期限は切れているけれど
隣の駅前にある百貨店に買い物に行くときに、チャージ専用で使っていて。
まだ、残金が600円とすこし、入っていたはずで。
貧乏くさくはあったのだけれど、とても惜しいと思って。
「ん、わかった。見つけたら教える。」
「はい、お願いします」
ソファに身体を埋めたまま、膝に乗せたシャコの背を、シノさんはなで始めた。
あ。はじまる。と思った。
シノさんは、のんびりやで、優しそうに見える。
でも反面、とてもわがままな人だ。
一人にして欲しいとき。話しかけると不機嫌になる。
そのくせ、孤独には耐えられない寂しがりやで。
さびしい時は話しかけないと怒る。
シノさんが一人にして欲しいとき。大体は言葉少なになって、ソファーに沈む。
そんなとき、近づけるのはシャコだけだった。
シノさんが不機嫌になるのは、心臓が縮む想いがする。
だから、なるべく、空気を呼んで。
シノさんの思うとおりに、動こう。そう決めていた。
シヅオに殴られないように、息を潜めていたときに比べれば、苦じゃなかった。
だから今日も、すこし出かけてこよう、って。
そっと冷蔵庫の中を覗いて。足りないものをメモして。
お財布を持って、そっと出よう・・・としたら。
「ヒナちゃん、出かけるなら、画材、お願い」
呼び止められた。
「レンブラントのラウンド 20号。それからホルベインのセルリアン ブルーと…」
いきなり言われて、慌ててメモを取る。
シノさんは、四つある部屋のうち一つをアトリエにして絵を描いている。
シノさん曰く、半分は趣味で、半分は仕事、らしい。
自由気ままに絵を描いているけれど、
仕事と呼べるのはこれしかしていないから、だそうだ。
私が来る前に、画材を購入するのは
インターネットの注文で済ましていたそうで。
でも、それだと描きたい時に手元にない事が多いらしく。
だから、画材を買うのも、立派な私の仕事だ。
私がメモを取り終えるのを横目で見て、
じゃ、頼んだ。と言ったきり、シノさんはまた独りモードに入ってしまったから。
私は、そそくさと、外へ出ることにした。
すこし気難しくて、我侭だけれど、優しい。シノさんとの共同生活。
それは私に、夢のような安らぎを、与え続けた。
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5.ウンメイ
辿り着いたのは、オートロックもついたすごく立派なマンションで。
私はついあんぐりと口をあけて見上げてしてしまった。
「ここで、いいです」
そう言って、その人はすとん、と私の背中から降りた。
まだ、ふらついてるけれど。大丈夫、かな…?
流石に住んでいるマンションで、おんぶされて登るのは
目撃されたらかわいそうだな、と思ったから、
じゃあ、私は…
ここで、って言おうと思ったけど。
よく考えたら、荷物をコンビニに預けているから。
荷物、とってきます。って続けた。
その人も思い出したように、あぁ、と。
「じゃあ、部屋にいるんで…。部屋番。1602」
エントランスの、端っこについたインターフォンのパネルを指差して。
「番号押した後、ここの、呼び出しっていうのを押したら、ここ、開けるんで」
そして、エントランスについた大きな自働ドアを指差した。
私は、わかりましたって言ってこっくり頷いて。
その人は、インタフォンの鍵穴に鍵を刺して捻った。
そして鍵を引き抜いて、それじゃあ。って片手を上げて。
彼を迎え入れるように開いた自動ドアの奥に、
吸い込まれるように入って行った。
それから。私は来た道を思い出しながら戻った。
おんぶして歩いていたときは気づかなかったけれど
コンビニまでjは、10分もかからない距離にあった。
コンビニのお兄さんにお礼を言って、荷物を受け取る。
だいじょうぶでしたか?って聞かれたから
だいじょうぶでした。って答えておいた。
ぺこんと、お辞儀をして。今度は、駆け足で戻った。
大きな袋は重たくて、手が痛くなったけど。
オートロックはなんだか緊張する。
震える手で呼び出しを押すと、はい、って声が聞こえた。
私はなんだか慌ててしまって、あの、あの、私です。と言ってしまう。
その人は、きちんと判ってくれたみたいで、ウイーンと、自動ドアを開けてくれた。
きょろきょろと周りを見渡すと、エレベーターホールに警備員が立ってるのが見えた。
不審者だと、呼び止められるかな。って思った
でもちろんそんな事はなくて、私は普通にエレベーターに乗り込んだ。
16階。1602号室。プレートに、「篠崎 蒼太」と書いてあった。
シノザキ、さん。口の中でぽつりと呟いた。
プレートの下には、また、ボタンのついたインターフォン。
私はそれを恐る恐る押す。ぴんぽろりん、と上品な音がした。
そのまま入って。そんな声が、インタフォン越しに響いて。
ドアノブに手をかけると、すうっと扉が開いた。
玄関から伸びる廊下の、奥にある扉が開いている。
そこ、かな?だだひろい玄関で、そっと靴を脱いだ。
おじゃまします、と一声かけてから、入ってゆく。
何畳くらいあるんだろう?っていう、広いリビング。
何インチなんだろう?っていう、でっかいテレビ。
それの、丁度正面にあるベッドみたいな、ふかふかのソファー。
半分埋まるようにして、シノザキさんは座っていた。
そして、私を見るなり、す、っと手を差し出した。
「なんか、なんでもいいんで…そん中から、食い物下さい」
「え、あ、はいっ」
私は慌てて、持ってきた袋の中へ手を突っ込む。
手に取ったのは、大きな袋の中の、一番上に入っていたミニ冷し中華。
封を切ってから手渡して、袋の中から割り箸を探して、それも渡してあげた。
具やスープをかけるのももどかしいように、シノザキさんは麺をかっ込み始めた。
「おなか、減ってたんですか?」
あまりに、犬のように食べるから。
気になって聞いてみる。
そしたら、シノザキさんは、胸をどん、どん。とたたきながら
口の中に詰めた麺を飲み下して、片手を私に広げてみせた。
「五日、食ってなかった。水だけ。」
「五日?!」
私は、素っ頓狂な声をあげた。
私は、半日ちょっと食べなかっただけでおなかが悲鳴を上げたのに
五日食べないとしたら、それはどれだけ苦しいだろう。
私は、すこし、その事について考えてみた。
そしたら、突如訪れた沈黙に居心地を悪くしたのか。
シノザキさんは私を見上げて言う。
「つか、立ってないで、座ってクダサイ」
「え、あ、はい。」
「あー、床じゃなくていいんで。ソファーに…」
「あっ、は、はい!」
「あー、もし、なんか食いたいモン、あったら。適当に食っていいっす」
「はい…あ、ええと。」
私、はい、しか言ってないなぁ。
どうしよう。しばらく、悩んで。
「トマト…」
「え?」
「トマト、食べてもいいですか?」
そう、聞いたら。シノザキさんは、ふっと笑って、ドーゾ、と答えた。
「ありがとうございます」
なんだか、ドキっとした。私は慌てて、袋の中を探して。
お目当てのトマトを見つけだした。
「台所、使っていっすから」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
「あ、ついでに。俺の分も洗ってもらってもいいですか」
「あ、もちろんです」
丁寧にラップをはがして、トマトを取り出す。
流しがぴかぴかで、台所もまるでモデルルームみたいだった。
流しのコックを下げると、冷たいお水がしゃわーっと出てくる。
表面に跳ねる水玉がきらきらとして、トマトはより一層光って見えた。
コックを上げて水をとめる。
両手に持ったトマトを、ぶんぶんと振って水気を切って。
はい、とシノザキさんにその片方を差し出した。
シノザキさんが受け取ったとき。
ほんの少し触れ合った指先が、じんとした。
トマトを、かじる。
濃くて甘くて、おいしかった。
シノザキさんも、トマトにかぶりついている。
私の妄想のように、汁を飲みこぼしたりはしなかったけど、
口の端についた汁を親指で拭う様子が、なんだかとても格好よかった。
ふと、目があった。
どきどきとした。恥ずかしい、そう思うのに。
私は目を逸らすことが出来なくて。
沈黙が落ちて。どうしよう、と思った。
自分の邪な心を、見透かされてる気がした。
けれど、実際にはそんな事もなく。
「さっきから、気になってたんスけど」
シノザキさんの言葉で、沈黙は突如終了した。
「え?」
「なんでそんなモン、持ち歩いてるんスか」
「あ」
シノザキさんが指差したのは、すこし埃を被った、私のボストンバッグで。
「これは、その、なんというか」
混乱した頭は思うように働かず。
最初はしどろもどろと言い訳をしていたけれど。
下手なことを言って、変な風に思われるのもイヤで。
気が付くと私は、あったこと全部話してしまっていた。
話してしまった後で、後悔した。
もしかしたら、帰れと、言われて。
警察や家族に連絡をされてしまうかもしれない。と思った。
帰ってもいいのじゃないか、と思っていた私だけれど
こんな風に帰りたいと思っていたのじゃなくて。
けれど、言ってしまったのは取り返しがつかなくて。
手元のトマトに視線を落とした。
「あー、じゃあ」
肩がびくっと震える。いけない、これじゃ。
覚悟を、決めなくちゃ。
「ウチで、働きませんか?」
―――え?
降って来た言葉は、想像とはとてもかけ離れたもので。
私は、とっても混乱した。
「前に来てた家政婦さん、辞めさせたから。ちょっと不便してて」
カセイフ、かせいふ、、、家政婦?
言葉を、理解するまでに、とても時間がかかって。
「俺、シノザキ、ソウタ」
蒼太。ソウタ。そう、読むんだ。
「あ。わ。私、私は、イクシマ、ヒナ。です」
生きるに島で、お日様に奈良の奈で、生島 日奈。
「じゃあ、イクシマさん、どうですか?」
そうやって聞かれて。
私は勢いでつい、頷いてしまっていた。
<前の話 |次の話>
私はついあんぐりと口をあけて見上げてしてしまった。
「ここで、いいです」
そう言って、その人はすとん、と私の背中から降りた。
まだ、ふらついてるけれど。大丈夫、かな…?
流石に住んでいるマンションで、おんぶされて登るのは
目撃されたらかわいそうだな、と思ったから、
じゃあ、私は…
ここで、って言おうと思ったけど。
よく考えたら、荷物をコンビニに預けているから。
荷物、とってきます。って続けた。
その人も思い出したように、あぁ、と。
「じゃあ、部屋にいるんで…。部屋番。1602」
エントランスの、端っこについたインターフォンのパネルを指差して。
「番号押した後、ここの、呼び出しっていうのを押したら、ここ、開けるんで」
そして、エントランスについた大きな自働ドアを指差した。
私は、わかりましたって言ってこっくり頷いて。
その人は、インタフォンの鍵穴に鍵を刺して捻った。
そして鍵を引き抜いて、それじゃあ。って片手を上げて。
彼を迎え入れるように開いた自動ドアの奥に、
吸い込まれるように入って行った。
それから。私は来た道を思い出しながら戻った。
おんぶして歩いていたときは気づかなかったけれど
コンビニまでjは、10分もかからない距離にあった。
コンビニのお兄さんにお礼を言って、荷物を受け取る。
だいじょうぶでしたか?って聞かれたから
だいじょうぶでした。って答えておいた。
ぺこんと、お辞儀をして。今度は、駆け足で戻った。
大きな袋は重たくて、手が痛くなったけど。
オートロックはなんだか緊張する。
震える手で呼び出しを押すと、はい、って声が聞こえた。
私はなんだか慌ててしまって、あの、あの、私です。と言ってしまう。
その人は、きちんと判ってくれたみたいで、ウイーンと、自動ドアを開けてくれた。
きょろきょろと周りを見渡すと、エレベーターホールに警備員が立ってるのが見えた。
不審者だと、呼び止められるかな。って思った
でもちろんそんな事はなくて、私は普通にエレベーターに乗り込んだ。
16階。1602号室。プレートに、「篠崎 蒼太」と書いてあった。
シノザキ、さん。口の中でぽつりと呟いた。
プレートの下には、また、ボタンのついたインターフォン。
私はそれを恐る恐る押す。ぴんぽろりん、と上品な音がした。
そのまま入って。そんな声が、インタフォン越しに響いて。
ドアノブに手をかけると、すうっと扉が開いた。
玄関から伸びる廊下の、奥にある扉が開いている。
そこ、かな?だだひろい玄関で、そっと靴を脱いだ。
おじゃまします、と一声かけてから、入ってゆく。
何畳くらいあるんだろう?っていう、広いリビング。
何インチなんだろう?っていう、でっかいテレビ。
それの、丁度正面にあるベッドみたいな、ふかふかのソファー。
半分埋まるようにして、シノザキさんは座っていた。
そして、私を見るなり、す、っと手を差し出した。
「なんか、なんでもいいんで…そん中から、食い物下さい」
「え、あ、はいっ」
私は慌てて、持ってきた袋の中へ手を突っ込む。
手に取ったのは、大きな袋の中の、一番上に入っていたミニ冷し中華。
封を切ってから手渡して、袋の中から割り箸を探して、それも渡してあげた。
具やスープをかけるのももどかしいように、シノザキさんは麺をかっ込み始めた。
「おなか、減ってたんですか?」
あまりに、犬のように食べるから。
気になって聞いてみる。
そしたら、シノザキさんは、胸をどん、どん。とたたきながら
口の中に詰めた麺を飲み下して、片手を私に広げてみせた。
「五日、食ってなかった。水だけ。」
「五日?!」
私は、素っ頓狂な声をあげた。
私は、半日ちょっと食べなかっただけでおなかが悲鳴を上げたのに
五日食べないとしたら、それはどれだけ苦しいだろう。
私は、すこし、その事について考えてみた。
そしたら、突如訪れた沈黙に居心地を悪くしたのか。
シノザキさんは私を見上げて言う。
「つか、立ってないで、座ってクダサイ」
「え、あ、はい。」
「あー、床じゃなくていいんで。ソファーに…」
「あっ、は、はい!」
「あー、もし、なんか食いたいモン、あったら。適当に食っていいっす」
「はい…あ、ええと。」
私、はい、しか言ってないなぁ。
どうしよう。しばらく、悩んで。
「トマト…」
「え?」
「トマト、食べてもいいですか?」
そう、聞いたら。シノザキさんは、ふっと笑って、ドーゾ、と答えた。
「ありがとうございます」
なんだか、ドキっとした。私は慌てて、袋の中を探して。
お目当てのトマトを見つけだした。
「台所、使っていっすから」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
「あ、ついでに。俺の分も洗ってもらってもいいですか」
「あ、もちろんです」
丁寧にラップをはがして、トマトを取り出す。
流しがぴかぴかで、台所もまるでモデルルームみたいだった。
流しのコックを下げると、冷たいお水がしゃわーっと出てくる。
表面に跳ねる水玉がきらきらとして、トマトはより一層光って見えた。
コックを上げて水をとめる。
両手に持ったトマトを、ぶんぶんと振って水気を切って。
はい、とシノザキさんにその片方を差し出した。
シノザキさんが受け取ったとき。
ほんの少し触れ合った指先が、じんとした。
トマトを、かじる。
濃くて甘くて、おいしかった。
シノザキさんも、トマトにかぶりついている。
私の妄想のように、汁を飲みこぼしたりはしなかったけど、
口の端についた汁を親指で拭う様子が、なんだかとても格好よかった。
ふと、目があった。
どきどきとした。恥ずかしい、そう思うのに。
私は目を逸らすことが出来なくて。
沈黙が落ちて。どうしよう、と思った。
自分の邪な心を、見透かされてる気がした。
けれど、実際にはそんな事もなく。
「さっきから、気になってたんスけど」
シノザキさんの言葉で、沈黙は突如終了した。
「え?」
「なんでそんなモン、持ち歩いてるんスか」
「あ」
シノザキさんが指差したのは、すこし埃を被った、私のボストンバッグで。
「これは、その、なんというか」
混乱した頭は思うように働かず。
最初はしどろもどろと言い訳をしていたけれど。
下手なことを言って、変な風に思われるのもイヤで。
気が付くと私は、あったこと全部話してしまっていた。
話してしまった後で、後悔した。
もしかしたら、帰れと、言われて。
警察や家族に連絡をされてしまうかもしれない。と思った。
帰ってもいいのじゃないか、と思っていた私だけれど
こんな風に帰りたいと思っていたのじゃなくて。
けれど、言ってしまったのは取り返しがつかなくて。
手元のトマトに視線を落とした。
「あー、じゃあ」
肩がびくっと震える。いけない、これじゃ。
覚悟を、決めなくちゃ。
「ウチで、働きませんか?」
―――え?
降って来た言葉は、想像とはとてもかけ離れたもので。
私は、とっても混乱した。
「前に来てた家政婦さん、辞めさせたから。ちょっと不便してて」
カセイフ、かせいふ、、、家政婦?
言葉を、理解するまでに、とても時間がかかって。
「俺、シノザキ、ソウタ」
蒼太。ソウタ。そう、読むんだ。
「あ。わ。私、私は、イクシマ、ヒナ。です」
生きるに島で、お日様に奈良の奈で、生島 日奈。
「じゃあ、イクシマさん、どうですか?」
そうやって聞かれて。
私は勢いでつい、頷いてしまっていた。
<前の話 |次の話>
4.カイコウ
今日も。どこにも行けない私は。
コンビニに来て、じぃっと時間が過ぎるのを待っていて。
ここ数日で何度も来たコンビニ。
いつも大きなボストンバッグを抱えて入る私は、もしかすると。
店員さんに不審に思われているのかもしれなかった。
でも、それを考えると恥ずかしくて来られなくなるから
考えるのはやめよう。そう決めた。
きゅるる、とお腹が鳴った。もうそろそろ夕方だ。
お昼ご飯を食べていなくて。だから、体の芯がだるかった。
なんだか、トマトが食べたい気分だった。
みずみずしくて、甘いトマトに塩をかけて、丸ごと齧りたかった。
ここみたいな、田舎のコンビニには何でもある。
お野菜も、ある。
トマト、2個で298円。
私の拳よりちいさい。ちょっと高いかな。
でもその表面はつやつやしていて、ぴかぴかに光っていて、
洗って齧ったらきっと美味しいだろうなって思った。
お野菜の前で、すこし考え込んでたら。
誰かの手がすっと伸びてトマトを手に取った。
白くて、綺麗で、華奢な…男の人だった。
細くて、白くて、綺麗な指で。
私の欲しかったトマトを迷い無く取った姿にすこし見とれた。
その人はいくつかの野菜をぽいとかごに放り込んで、
別の売り場へ歩いて行く。
トマトは取られてしまったけど、それでもいい、って思った。
私は無意識に、その人の唇をみつめて、
それが、トマトを丸ごと齧るのを想像した。
あの白い指がトマトを持って、齧ると、
飲み損ねたトマトの赤い汁があの白い喉を伝うのだ。
ごくり、と喉がなった。
さっき読んだ、えっちな漫画が載ってる漫画雑誌を思い出して背筋がぞくっとした。
頭にシヅオの顔が浮かんで、どこか後ろめたい気持ちになった。
それこそトマトみたいに赤くなる顔を、商品を選んでるふりをして誤魔化した。
食べられなかったトマトの代わりに、パックのジュースと、ピザまんを買う。
がらがらの駐車場の、クルマ止めに座って食べた。
ぬるい風がほっぺを撫ぜる。
もうじき、あったかくなるから、中華まんはそろそろなくなるかな。そんな事を考えた。
ジュースを飲みながら、店内をちらりと見る。
さっきの男の人が、丁度出口に向かって歩いて来るところだった。
慌てて目を逸らす。
彼が通り過ぎてから、その背中をじっと見つめた。
大きなコンビニの袋を二つ両手にぶら下げて、歩くその姿は
にじみ出る生活感とはうらはらに、どこか儚げで幻想的だった。
まるで、女の人みたいに、綺麗な男の人。
いるんだなぁ…って思った。
漫画の中にしか、いないって思ってた。
どこか夢心地で見送っていたら、ふいにその背中が傾いだ。
その人はふらり、とよろめいて。
近くの電信柱に手を付くと、そのままずるり、と崩れ落ちた。
え?って思った。
一瞬、何が起きたのか判らなくて。
倒れたんだ、って気づいたときにはもう、体が駆け出していた。
だいじょうぶですか!と私が声をかけると、
だいじょうぶ、と弱弱しい声が聞こえた。
きゅうきゅうしゃ…と、無意識に呟いたら
「呼ぶな!」
びくっとした。強い声で怒鳴られた。
でも、その人は怒鳴ったと同時に嘔吐いたみたいで
口を押さえながら、肩を震わせていた。
「たのむ、から、よばないで、ください」
その人は、絶え絶えになりながら、
嘔吐いた勢いで、目に涙をにじませながら、そう言うから。
そんな風に言われたら、呼べるわけがなかった。
だから、私は頷いて。
男の人の持っていたビニール袋をよいしょ、と持ち上げた。
男の人はびっくりして私を見上げた。
盗られる、と思ったのかもしれない。
だから、私は首を振って、安心させるように。
ここで、待っててください。って言った。
私はそのまま、袋をもってコンビニの中へとってかえして
店員さんに、すぐに取りに来ますから、って預けた。
店員さんが、外をちらりと見て、だいじょうぶですか?と聞いたから
だいじょうぶです、って答えて、また、走ってその人のところへ、戻った。
そのひとは、電柱にもたれかかって座り込んだまま、大きく息を吐いていて。
私は、その前にしゃがみこんで、背に向けた手のひらでくいくいっと手招きした。
「え?」
戸惑ったような声が、聞こえたから。私は応えた。
「おんぶ」
「いや・・・それは・・・」
「いいから、早く!」
有無を言わさないように強い声で言ったら、
その人はおずおずと私の上に覆いかぶさった。
力を込めて、立ち上がる。
重たい。背骨がぎしり、と鳴った。
さすがは男の人で、華奢な見た目に反してすごく重たかった。
よいしょ、と背負い直してから、私は言った。
「おうちは、どこですか?」
これが、はじまり。
きっと、これは運命だったんだ。
多分、そういうことなんだって、思った。
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コンビニに来て、じぃっと時間が過ぎるのを待っていて。
ここ数日で何度も来たコンビニ。
いつも大きなボストンバッグを抱えて入る私は、もしかすると。
店員さんに不審に思われているのかもしれなかった。
でも、それを考えると恥ずかしくて来られなくなるから
考えるのはやめよう。そう決めた。
きゅるる、とお腹が鳴った。もうそろそろ夕方だ。
お昼ご飯を食べていなくて。だから、体の芯がだるかった。
なんだか、トマトが食べたい気分だった。
みずみずしくて、甘いトマトに塩をかけて、丸ごと齧りたかった。
ここみたいな、田舎のコンビニには何でもある。
お野菜も、ある。
トマト、2個で298円。
私の拳よりちいさい。ちょっと高いかな。
でもその表面はつやつやしていて、ぴかぴかに光っていて、
洗って齧ったらきっと美味しいだろうなって思った。
お野菜の前で、すこし考え込んでたら。
誰かの手がすっと伸びてトマトを手に取った。
白くて、綺麗で、華奢な…男の人だった。
細くて、白くて、綺麗な指で。
私の欲しかったトマトを迷い無く取った姿にすこし見とれた。
その人はいくつかの野菜をぽいとかごに放り込んで、
別の売り場へ歩いて行く。
トマトは取られてしまったけど、それでもいい、って思った。
私は無意識に、その人の唇をみつめて、
それが、トマトを丸ごと齧るのを想像した。
あの白い指がトマトを持って、齧ると、
飲み損ねたトマトの赤い汁があの白い喉を伝うのだ。
ごくり、と喉がなった。
さっき読んだ、えっちな漫画が載ってる漫画雑誌を思い出して背筋がぞくっとした。
頭にシヅオの顔が浮かんで、どこか後ろめたい気持ちになった。
それこそトマトみたいに赤くなる顔を、商品を選んでるふりをして誤魔化した。
食べられなかったトマトの代わりに、パックのジュースと、ピザまんを買う。
がらがらの駐車場の、クルマ止めに座って食べた。
ぬるい風がほっぺを撫ぜる。
もうじき、あったかくなるから、中華まんはそろそろなくなるかな。そんな事を考えた。
ジュースを飲みながら、店内をちらりと見る。
さっきの男の人が、丁度出口に向かって歩いて来るところだった。
慌てて目を逸らす。
彼が通り過ぎてから、その背中をじっと見つめた。
大きなコンビニの袋を二つ両手にぶら下げて、歩くその姿は
にじみ出る生活感とはうらはらに、どこか儚げで幻想的だった。
まるで、女の人みたいに、綺麗な男の人。
いるんだなぁ…って思った。
漫画の中にしか、いないって思ってた。
どこか夢心地で見送っていたら、ふいにその背中が傾いだ。
その人はふらり、とよろめいて。
近くの電信柱に手を付くと、そのままずるり、と崩れ落ちた。
え?って思った。
一瞬、何が起きたのか判らなくて。
倒れたんだ、って気づいたときにはもう、体が駆け出していた。
だいじょうぶですか!と私が声をかけると、
だいじょうぶ、と弱弱しい声が聞こえた。
きゅうきゅうしゃ…と、無意識に呟いたら
「呼ぶな!」
びくっとした。強い声で怒鳴られた。
でも、その人は怒鳴ったと同時に嘔吐いたみたいで
口を押さえながら、肩を震わせていた。
「たのむ、から、よばないで、ください」
その人は、絶え絶えになりながら、
嘔吐いた勢いで、目に涙をにじませながら、そう言うから。
そんな風に言われたら、呼べるわけがなかった。
だから、私は頷いて。
男の人の持っていたビニール袋をよいしょ、と持ち上げた。
男の人はびっくりして私を見上げた。
盗られる、と思ったのかもしれない。
だから、私は首を振って、安心させるように。
ここで、待っててください。って言った。
私はそのまま、袋をもってコンビニの中へとってかえして
店員さんに、すぐに取りに来ますから、って預けた。
店員さんが、外をちらりと見て、だいじょうぶですか?と聞いたから
だいじょうぶです、って答えて、また、走ってその人のところへ、戻った。
そのひとは、電柱にもたれかかって座り込んだまま、大きく息を吐いていて。
私は、その前にしゃがみこんで、背に向けた手のひらでくいくいっと手招きした。
「え?」
戸惑ったような声が、聞こえたから。私は応えた。
「おんぶ」
「いや・・・それは・・・」
「いいから、早く!」
有無を言わさないように強い声で言ったら、
その人はおずおずと私の上に覆いかぶさった。
力を込めて、立ち上がる。
重たい。背骨がぎしり、と鳴った。
さすがは男の人で、華奢な見た目に反してすごく重たかった。
よいしょ、と背負い直してから、私は言った。
「おうちは、どこですか?」
これが、はじまり。
きっと、これは運命だったんだ。
多分、そういうことなんだって、思った。
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