久々に兄弟で、いろいろ家族のことを話し合った。

 

性格や考え方もあって、全然両親に対する見方が違う

 

母親の気持ち・考えが手に取るようにわかるから、母親を守ろうとして、

父親に立ち向かって殴られ、投げ飛ばされていたT子。

争いごとが嫌いなのに、怒られるような言動ばかりする、

ちっとも対策を考えない母親を批判するR子。

父親は絶対変われない、じゃあ、母親に変わってもらうために、

ひたすら、母親の愚痴・言い分を聞いて、自分から変われるように

言葉を選んで付き合ったいた自分。

 

(小1の時、母親を泣かせてしまったことにびっくりした。

母親は、すべて私が悪いってわんわん泣いた。

自分は反省した。

発言にもっと慎重にならないといけない。

相手もことを考えて、受け入れられるような言い方をしなくちゃいけないと思った。

だから、いつも母親の愚痴を聞いていた。

99%真摯に聞いていた。そして、こちらの言うことは、疑問形だった。

「本当にそうなのかな?他の考え方や振舞い方はないのかな?」

 

夫婦関係以外のことについてもいっぱい、論争(1%しか言わないが)した。

ふと、思い出したのが、「抗生物質」のことについて、

「ワクチン」について、「第二次世界大戦の日本の対応について」。

 

母親に、抗生物質に対する妄信があった。

母親とR子はしょっちゅう抗生物質を飲んでいた。

母親や飲みすぎたせいなのか、そして、だんだん効かなくなっていった。

「飲みすぎなんじゃないの。

いざという時のために飲むのを我慢すべきなんじゃないの?」

 

(ワクチンの仕組みを教えてもらったが、)

「いくら病原菌を弱めたとしても、体力が落ちていた場合や、

間違って薄めそこなったワクチンがあったら、

予防接種をきっかけに、発症・流行なんてことがありうるんじゃないの?」

 

(石原莞爾や山本五十六のことを教えてもらったが)

「陸軍に天才と言われた石原莞爾って人がいたなら、この人にすべてを統括させればよかったんじゃないの?

なんか話してくれた内容と「陸軍は悪い」「「山本は国民のヒーロー」という

結論付けられた話が結びつかないし、納得いかないんだけど。

山本五十六って英雄視されているって話してるけど、聞いてると

なんか間違ってばかりじゃないの?本当にすごい人なのかな?」

 

小学校1,2年生の時、なんかのたびにいろんな話を聞いて、質問していた。)

 

(小学校二年の時に、母親が変われない、時間がかかる、

でも現実的に、暴力で死んでしまうと思って、

T子に離婚を覚悟しろ、そして離婚を二人で勧める計画を立てた。

でも、離婚を受け入れなかった母親に、大人の世界、人間関係の難しさを感じた。

小学校高学年で、父親に対抗できる肉体になって、

包丁が出てくる夫婦喧嘩を止める状況になって、

そのうち、止めるために間違って父親を殺してしまうかもしれないという

妄想、ストレスを抱えるようになる。

 

■現在の教育環境(特殊学級の前にコミュニケーション訓練の場がある?)

 

 今、小学校には、特殊学級までもでない、コミュニケーション訓練をというものがあるそうだ。

それをR子が、自分やTさんが経験できれば、もっと人生がよくなったと思わない?

などと言ってきた。

Tさんは、いつも1テンポも2テンポも反応が遅いという。

(単に、慎重に対応してるだけじゃない?)

「お兄ちゃんも、そういうことで悩んでこなかった?」と言ってきた。

 

そんな意識は全くなかった。

全然、そんな表面的な技術の問題どうでもよかった、と言った。

自分の問題は「恐怖」「存在する価値のない自分」で、技術論の前の段階だった。

 

「本当にそうなのか」という父親の言葉と暴力がいつも頭の中でリフレインしていた。

だから「自分はこう思う」というものはあっても、それを口にすること、ましてや、みんなの前で発表するなんてとてつもないストレスだった。

 

ずっと、テストの答案用紙は前半三分の一程度しか埋まらなかった。

「本当にそれであってると思っているのか!」という重圧が常にあって、

何十回と考え直していたからだ。

(間違えるということは、死を覚悟しろ、くらいの認識だった)

 

父親と先生に「白痴」「障害者」と言われ、普通の生活ができない。

別の特別な施設に入れられる、とずっと思い込んでいたが、

ある時、自分より低い点を取っている生徒たちを知って驚く。

 

三年の時に仲良くなった友達が手をあげて答えて間違える姿を見て、

どうして間違えてるのに答えられるの?

間違えてもいいのか?って勇気をもらえた。

 

四年生の時に仲良くなったそろばんを習っている友達が、

計算問題をいつも一番に終わって提出していた。

半分もかけない自分よりも、点が低かった。あれって思った。

そんなに堂々と先に進んでいいんだ、間違えていいんだって、感覚が変わっていった。

一緒にスピード競争を始めたら、いきなり自分は「頭のいい子」になってしまった。

 

自分の根本は何一つ変わっていなかった。

宿題はやらないどころか、教科書さえ開くことすら

考えられない自分は変わらなかった。

「自分は世界一の馬鹿。馬鹿は努力することすら無駄。」と自己定義していた。

ただただ、間違っても否定されない、殺されないことを知って、

何百回もリピートせずに、繰り返し考えるのを5-6回に減らしただけで、

「頭のいい子」に評価が激変して、都立11群に入れた。

勉強をしたわけじゃない。

ただ、テスト問題に対する対応の仕方を変えただけだった。

 

姪っ子のAが誰よりも優秀なのに、

「自己肯定感が低く」て、どうしたらいいんだろうってR子が悩んでいたって。

自信をもって、みんなを引っ張ってもらいたいのに、

みんなの様子を見ながら、うしろから付いていくのがもどかしかったって。

(ちょっと自分に似ている。俺は勉強はできないし、しなかったけど)

自己肯定感が低いから?小さい頃からちゃんと宿題、勉強をしていたし、

自分で塾を見つけてきて、目標を定めて、がんばってきていた。

A大学で、優秀者に選ばれて誇らしかったとR子が感慨深かったようだ。

 

なぜ「存在してはいけない存在」のように見られていた?

 

父親から、呼びかけても無視され、珍しく向き合われる時は、三白眼で刺さるように睨まれ、言葉、言動、態度を理由に延々と責められ殴られ、虐待されてきた。

妹たちとは、全く違う扱いだった。

 

保育園、小学校1年の時、布団の中で毎日、声を押し殺して泣いていた。
(泣いてる姿を見つけられるだけで、逆鱗に触れ、殴られまくった。)

絶望していた自分。なぜ、こんなつらい経験をさせるんだって神様に聞きたかった。

当たり前の人生をあきらめ、自分をダメだと定義し、何を根拠に生きていくかを小1で決めてそれから、生きていくことに向き合えた。

世界一無精で、何もできない、努力しても無駄。

できるだけ穏やかな人生を味わって死にたい。

何もできないけど、困ってる人、泣いてる人に真っ先に駆け付ける事だけ決心した。

 

 数年前、いろんな話を想像して、こう結論付けた。

父親は、もっと夢(劇作家になる?)を追いたかったのに、自分が出来てしまって生活に追われることになって、それで、自分の存在を疎ましく思っている。

 

って話をしたら、T子が違うと思う、と。

出来ちゃった婚でなく、結婚してから、俺が生まれたはずだと。

そうなのか、違う情報を得て、仮説を修正しよう。

 

とすると、「白痴」「障害者」「蛭子」という忌まわしい存在のせいなのかな。

昔の障害者は、座敷牢じゃないけど、世間に出せずに家で隠されていた存在だ。

そういう感覚だったのだろうか。

 

中年になって、福祉の世界の勉強したが、

保育園の時の扁桃腺手術での入院時に、

知能検査や障害検査をやっていたことが映像を見て、思い出された。

父親が、母親に検査させろって言っていた。

そして、白痴施設を探して入れろ、通いでなく施設に入れてしまえって言っていた。

機能障害はなく、知能検査も問題なかったが、父親は信じなかったみたいだ。

 

■大人たちの評価の違い、相性

 

R子が、中学の先生に「お兄さんもお姉さんも優秀なのに、お前は」などと言われたと話した。

T子が、児童館の先生に「お兄ちゃんは無邪気でかわいいのにあなたは大人びてて可愛くない」と言われたと話す。

いろんな大人に言われたエピソード話に驚く。

俺は、父親に虐待され、1年担任のS先生にずっと虐待され、毎日の絶望の時間の中で児童館での学童が唯一救いの時間だった。

大人と子供の話じゃない。人と人との相性、感覚の違いというものだ。

 

自分という存在を否定してきた父親やS先生、なのに保育園のS先生は不器用な自分を愛してくれたし、三年の先生はできない自分をそのまま面白がってくれた。高学年の時の先生や、中学の先生は逆に自分に期待しすぎていた。

どれも、あるがままの自分ではなかった。

そんなものかもしれない。

 

妹たちは、お互いにこんな強い人はいない、全然話が平行線だと話した。

だからこそ、社会に出て、役立ったと話していた。

理論的に話せば、納得するはずだと信じるR子。

なのに、ちっとも話を理解せず、考えが全く変わらない母親やT子

を強いと思っている。

T子からすると、気持ちや感情を話しても、理解しようとせず、頑なで、

自分の意見を自信満々に押し付けてくるR子って強いと思ってしまう。

 

決めつけと、自己肯定感の高い人

 

自分はずっと作文が書けなかった。もちろん自分の意見も言えない。

作文や小論文だって、自分の中にいろんな考え方や見方があるから、

全然まとまらないから書けなかった。という話をした。

R子は、自分の中に材料から書きやすいものを集めて、

書けばいいだけじゃないという。

 

自分は、予備校で小論文ゼミを受講してから、変わっていった。

あれもこれも書かなくちゃって思ってたけど、

ゲームと考え、割り切ることで、変わることができるようになった。

どの立場で書くって決めて、その言いたいことを理由付けするって

考えられるようになって楽になった。

自分の考えられるすべてを書くのではなく、

今はこの立場で乱暴に言い切る!っていうイメージ。

 

そういう意味で言うと芸能人やタレントは、すごい、

かっこよく言い切る能力がすごいって話をした。

格付けチェックで、みんな本当に自信満々な言葉と態度で、饒舌に語っていた。

こう言う人種が芸能人やタレントや、社会の成功者なんだと思う。

 

ところがこの「格付けチェック」で、かっこいいスターの中でも、本物と本物まがいの者がいるってことを教えてくれたと思う。

 

古くは、名誉ワインソムリエとなっていた芸能人がことごとく、

語る言葉と裏腹に全く味がわかってないことが暴露された。

中島健人や林遣都がさわやかに自信満々に語るのに、全滅。

 

しかし、会社やいろんな機会を与えられるのは、圧倒的に彼ら。

みんなその自信を信じて採用する。

その一方、本物もいる。ガクトやヨシキ。すごい。

前川清や高嶋政伸は相変わらず、自信満々に外しまくっている。

グループだと、自信満々の強い子に引きずられて、自分の正解を放棄する場面も、

人間社会の縮図が見えるようで面白い。

 

それと、社会の押し付けられた「決めつけ」事への疑問

ワインの味がわからないという問題だけでなく、

安くても、みんながおいしいというワインが、本来は評価されるべきなんじゃないかという仮説。

ヨーロッパのブランドが評価されすぎなんじゃないのっていうこと。

 

そう言えば、ミシュランの名店のチャーハンは、みんながまずいって評価されなかった。勿論、単品でなく、流れでの評価すべきなのだろうが、町の中華のチャーハンでなく、ド素人の浜田のチャーハンが、みんなの評価を集めた

 

そんな、作られた評価で、お金をもらう仕組みを評価せず、押し付けないことが大事だなと思った。

自分のおいしいが本当のおいしい、無理やり自分の感覚を変える必要はないんじゃないの。