寺院
仏教が我国に公式に伝来したのは「日本書記」によると、欽明天皇の13年(552)。百済の聖明王から貢ぎ物として、釈迦の金銅仏一体と、幢幡(仏式飾り旗)と天蓋(仏式飾り大笠)若干、経論若干巻が天皇に献じられたことにはじまると記されている。(一説には仏教公伝は西暦538年とある=「上宮聖徳法王帝説」) 蘇我氏と物部氏は仏教信奉の是非をめぐって対立を深めたが、蘇我馬子は聖徳太子と共に兵を用いて物部氏を攻め滅ぼした。
こうして聖徳太子による崇仏の時代は開かれたのである。太子が「十七条憲法」の第二条で「篤く三宝を敬せよ」と命じられたのは、今後、仏教精神を政治に取り入れるということを、天下に公示されたことになる。奈良時代の仏教は国家鎮護を主目的としていたが、慈善事業や社会事業に力を尽くしていた例もみられる。たとえば空海は讃岐(香川県)満濃池の
修築を指導したり、京都東寺の隣に綜芸種智院を開設して庶民の教育機関とした。行基は平城京周辺に橋を架けたり道路を整備したりして土木事業をすすめるほか、諸国をめぐっては貧民病者を救済し、ともに民衆から「菩薩」とまで仰がれ慕われたほどである。
光明皇后も病人に薬を与える施薬院を皇后宮職におき、全国各地から薬草を買い集めたり、また貧しい病人や孤児を救済する悲田院を設けたという。和気清麻呂の姉である広虫も仏教信仰が篤く、孤児十人を養育するとともに、天平宝字8年(764)恵美押勝の乱に連座して斬られようとした375人の助命を天皇に願い出て救い、更にこの乱によって孤児となった83人を養育したと伝えられる。一方日本古来の「神」は、毘怖すべく敬すべきものあると考え、荒ぶる神に対して人々は鎮めの祭りをおこない、その荒魂を幸魂とか奇魂といった「和魂」に変えてきた。それに対して「仏」は慈悲を本命とするため悩みを持つ民衆は仏教に傾いていった。やがて神仏は習合し、本地垂迹説が生まれた。神を仏の応化とし、仏は
衆生済度のために仮に神の姿になって示現したという思想である。さらに仏は神の上に
立つとも解されるまでになり、歴代天皇のなかには崇仏の心篤く、たとえば奈良に大仏を
造り、国家の安泰を祈願した例もある。その昔、神仏習合の歴史があったとしても、厳密に言えば神と仏はまったく別の観念であるし、宗教としてもまったく別の体系をもっているにもかかわらず、仏教が日本において発生の地インドにおける以上と言われるように、現在もなおその原型をとどめ定着しているのは、生活の苦しさから救われたいとする人々の切実な願いがあったからであろう。
宗念寺
本尊・阿弥陀如来 脇仏・観世音菩薩 勢至菩薩 宗派・浄土宗
当寺は以八(いはち)上人が諸国巡錫の途次、福江に滞在し元亀2年(1571)石田の浜
(現在の裁判所敷地)に小庵を建てたのに始まる。以八上人は奥州山崎(現福島県)の人。寛永4年(1627)第22代五島盛利の実母芳春尼は病にかかったが、たまたま霊夢を見た
盛利は、丸木の漁民に命じて霊験あるという魚目村浄福寺の本尊を福江に迎え、一心に
礼拝祈願したところ母芳春尼に病は平癒した。ために盛利はこの阿弥陀如来像を守り本尊とし、同年、代わりの仏像を浄福寺に寄進した。寛永9年(1632)芳春尼草庵が「山ン中」に移された。これが現在の宗念寺の位置であるが、古くは福江郷大字北町小字山ン中と称した。草庵移動後、二年して芳春尼が没したので、その遺骸を同寺境内に葬り、菩提樹とし、「芳春山華顔院宗念寺」と正式名称を付した。宝暦5年(17551)の寺領100石。宗念寺には五藩主それぞれの生母(いずれも側室)の墓碑と、文化10年(1813)日本沿岸測量のため来島した伊能忠敬に同行した坂部貞兵衛、五島藩絵師大坪玄能、福江の生んだ画家
白浜徴、詩人で画家の簗瀬十峰のものがある。本堂の再建は大正14年起工、昭和4年完成。また昭和58年8月より本堂の瓦葺き替えにかかり、昭和59年3月に完成。山門の瓦のみ昭和59年3月に葺き替えられた。
宗念寺の境内に入ったこっはなかばってん、高校3年時、下宿の大工町から学校までの
通学路としてすぐ側の道ば通っていたと。
まさかこんな場所に、伊能忠敬縁の人の墓碑があったとは知らんじゃった。Σ(゚д゚;)
byー昭和のおじさん