久しぶりの連休とお仕事を兼ねた帰省
 
今回はじっくり5日間滞在してひたすら両親と3人
毎日顔を突き合わせて過ごしておりました。
 
18歳で実家をでた私。
 
22年後まだ独身で東京で一人暮らし。
親はさぞかし今後の娘の将来が心配だと思います。
 
自分たちももう若くないから。
先が見えているから。
 
私は私で両親のコミュニケーションの状態や健康状態が心配
 
やはり家族は毎日顔を突き合わせているとケンカもあります。
それもぬきさしならない感じの・・・
 
どこの家庭もすくなからずあるかと思うのですが、家族という甘えがどこかにあるのでしょうか?
本当に両親をみていて
両親とかかわって
心からうんざりすることもあります(笑)
 
でも

もし私が、寛容で受け止めることがどんどん出来るようになると、自ずと私という娘としての

立場も大きく変わってくるはず。

きっといつかは分かってくれるはずと思い諦めないことが大切
 早いか遅いかだけ

 しかし、これからは色々なシチュエーションで自分の考え方、言動、行動などを示していくことによって、いつまでも無知で未熟だと思われていても受け止め方は必ず変わって来ると思います。

 

みんな人間、知らない事はたくさんあるはずです。

両親も完璧ではない。
 そこを、私が補足してあげると人はあの人は無知で未熟で頼りないという見方から、一人前の人間としての見方に変わると思います。
時間は掛かります
 ですから、少しずつ少しずつ、ことある度に・・・

 

そのためにも常に謙虚に自分を成長させていかないといけない。。

 

なんてぐっと怒りを我慢して思い直すこと数回(笑)

 

でも最後は心から感謝の念でさようなら。

 

次の目的地
仕事場である長岡市にむかう前両親がまで車で送ってくれました。
駅にいくまえちょっとだけ海に。
 
そうしたら素晴らしい夕暮れの空に天使の梯子が。
いつも荒々しい日本海も嘘みたいに穏やか。
 
こんな神々しい地元の海を初めて見ました。
これはきっと
いえ絶対に
「私達に素晴らしい未来を与えてくれる神様からのプレゼントだ」
そう前向きにとらえることができました。
 
駅のホームで。
こんな幻想的な風景も最後の最後に目に入ってきました。
 
「これからもどこにいても絶対地元・故郷の光景は脳裏に焼き付いて忘れないでしょう。」
 
小さなころからずっと地元が嫌いでした。
雨嵐
いつも薄曇りで心が暗くなる。
 
忍耐だけを要する土地
明るい話題も気候も縁遠い土地
 
ですが、こうして距離を少し置いて帰ってくると他者目線でとらえるからでしょうか?
いいところをいくつも見つけることができます。
 
東京にでて良かったことの1つです。

そして特急「しらゆき」で約35分
目的地長岡に到着しました。
 
長岡駅でとっさに目に入ってきたこのポスター
「おかえりなさい こっちはいいろ? そろって帰ってこいて」
おかえりなさい こっちは(やっぱり)いいでしょう? そろそろ帰っておいでって
という方言。
 
これは私の実家でも充分つかうし通じます。
だからこそ
東京で将来展望もよくわからず?暮らしている私のような多くの上京した新潟県人の
心に響いてきてこたえるのです・・・
 
東京に上京するのは新潟県人がトップだそうです。

そして新潟県は贅沢な観光列車が恐らく日本の都道府県の中で最も多く走行しているのではないでしょうか?
 
現美新幹線
ゆめぞら
雪月花
越乃shukura
そして
5月1日からスタートしたトランスイート四季島
 
越野syukuraは列車内で地酒が堪能できます♪
トランスイート四季島はもう予約でいっぱいだそうですね(この列車は新潟県だけはなく色々な県を走行します)
 
自分の出身県でも だからこそ?
灯台下暗し
知らないことが多いです。
 
そして長岡
以前もご紹介しましたが長岡藩がありました。
河井継之助
山本五十六
を輩出した藩です。
 
米百俵の教え
戊辰戦争によって、長岡は壊滅的な状況となっていましたが、文武総督でもあった小林虎三郎は、「学校創設による人材育成こそが敗戦国の復興にとって肝要である」との考えの下、長岡の四郎丸村にあった昌福寺の本堂を借りて、国漢学校の前身を発足させます。

その学校を、かつての藩校・崇徳館のような藩士の子弟だけの学校ではなく、農民や町民の子弟も入学できるように、広く開かれたものにするのには、大きな資金が必要でした。

その後、長岡藩の窮状を察した支藩の三根山藩から、米百俵が贈られました。

生活に困窮していた藩士たちは、その米が分け与えられることを望んでいましたが、虎三郎は藩士たちに向けて、「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」と主張します。

結局藩士たちは、この虎三郎の気概に負けます。

米百俵を元手に書籍や器具を購入し、明治3年(1870年)に国漢学校が長岡の坂之上町に開校しました。
洋学局や医学局も設置されていました。

国漢学校は、虎三郎の「富強の本ただ人民の知識を開く外なし」という思想により、農民や町民の子弟も入学を許可されていました。

入学志願者は、町ならば町代の印、村ならば庄屋の印をもらって嘆願書を出し、四書五経の素読が終わっていれば、簡単に入学が許可されたので、最初から比較的多くの志願者がいたようです。

校舎は教室数が6つもあり、教師や教育内容も充実していました。

国漢学校は、後に新政府の学制に組み入れられ、阪之上小学校、長岡中学、洋学校、医学校などに分岐していきます。

ここから、山本五十六ら多くの優れた人材を輩出していきます。

小林虎三郎は、はるか遠くを見据えていたのです。

米百俵のエピソードは、山本有三の戯曲「米百俵」で有名になり、その後、平成13年(2001年)の所信演説で小泉元首相も「米百俵」を引用したことで、再び全国的に知れ渡りました

 

 
そして毎年夏の風物詩
長岡の花火
 
私のイメージですが。
長岡は昔から長岡藩のころから
学術に力を注いでいる自治体
というイメージなんです。
 
上越市とちがって(笑)
 
今回お仕事でつかった会場も市民や県外・市外の人たちにも会場を気軽に使いやすい
料金で貸出してくれます。
 
市民の方々の各種学習や音楽演奏・セミナーで本当にちゃんと利用されていて
学生たちも勉強でテーブルを占拠するという素晴らしい市民サービスです☆
 
今度の土曜日には
「吉永小百合さんにプレゼントされたかもしれない?レコード鑑賞会があるそうです。」
ハイドンのひばり♪
 
そして、この会場は何回も使用しているのに今回初めて2階に長岡で・中越で
起こった悲惨で悲し出来事を忘れないための施設があることを気づきました。
 
それが
「きおくみらい」
です。
 
2004年10月26日
17時56分
に中越で発声した中越大地震の様子を詳細に残して展示している場所。
 
中越地方は内陸
地すべり地帯です。
 
もうあれから13年も経過したんだ・・・
あの地震でおさない命もそうでない大人の命も奪われましたが
1つの奇跡があったことも忘れません。
車のまま土砂に埋められた2歳の男の子が92時間ぶりに奇跡の救出をされたこと。
 
その男の子ももう15歳になったんだ・・
 
 
15分の映像もミニシアターで貸切状態で見ました。
 
地面は中越の地図になっていて地震の震源地など写真で確認できます。
 
土砂で道路が寸断され山古志村は陸の孤島になってしまいました。
それを復旧したのは
陸の孤島になったなかの地元の建築業にたずさわる男性の方々でした。
 
クレーンなどで土砂をとって
道を整備して・・・
 
「自分たちの命は自分たちで守る」
すごいことです。
 
こうして図で見てみると新潟県って地震が結構起きているのだなぁと認識。
日本自体が地震列島なのでどこにいても逃れることはできないと分かっていますが
東北
熊本
地元新潟
完全な復旧にはどれだけの年月がかかることか・・
 
中越地震の時には仮設住宅に3年住んだそうです。
 
その地震の瞬間からとまったままの時計
災害に遭遇した方々にとってはこの時は思い出したくないことだと思います。
 
どんなつらいこと
どんな後悔
があっても
諦めず
くじけず
くさらず
前を向いて
明るい未来を夢見て
 
すすむしかないんだ。
 
そう心を新たにして
前進するしか道はない
 
自分に言い聞かせました。