私には今も、音とトーンがはっきりと心に残っているある言葉があります。

小学校3年生のころです。
友人と喧嘩をしてしまったときに同級生のお母さんが悪気なく、そして本当は私をフォローしながら言ってくれたであろう言葉。

「美帆ちゃんはお父さんもお母さんも忙しくて可哀想なんだから、もっと優しくしてあげなさい」

私は衝撃を受けました。

「かわいそう?」

「え、私ってかわいそうなの?パパとママがお仕事で忙しいと、娘の私はかわいそうなの?」


それまでどんなに親が忙しくても、祖父母の家に預けられることが多くても、1人でお留守番していても、自分が可哀想だなんて思ったことがありませんでした。
それが私にとっては「普通」だったし、その中で自分なりに過ごしていく方法を自分で見つけていたからです。


「一人っ子は可哀想」と言われた時も同じように衝撃を受けたのを覚えています。

私の記憶では、それまでは私は私なりに私に与えられた環境の中で楽しんで生活していました。

自分にとって兄弟がいないことも、親が共働きで忙しいことも「普通」でした。しかし、その「普通」を「可哀想」と言われたことにより、それが普通ではなく「異常」なのだと思うようになってしまったのです。


「普通」って本当に難しい。
一昨日も初めてのお店に電話したとき、店員さんに「いま混んでますか?」とお聞きしたら「普通の土曜日って感じですね」と言われ、「そのお店の普通が私にはわからないですー!」と心の中で叫んでしまいました。


わたしの「普通」と他の人の「普通」は、

わたしが見ている「青い空」と他の人が見ている「青い空」が本当に同じ「青さ」なのかわからないくらい、はっきりしないものなのかもしれませんね。



「美帆ちゃんは可哀想」と言われてからは、どんな場面でも、「私って可哀想なのかもしれない」と自分の状況に対して疑問や不安になってしまうようになりました。(それはどこか悲劇のヒロインのように途中から自分でも大げさにしすぎていたかもしれませんが。)

今までは気にもしていなかったのに、祖父母と公園にいったとき、「周りはみんなパパやママと来ているのに、わたしは、、」と周りと比べてしまい、寂しくなったのもその頃です。

「9歳の壁」という言葉があるように、9歳前後で子どもは他者と比べたり劣等感を持つようになると研究結果が出ているようで、特に、わたし自身も感じやすくなっていた時期だったのかもしれません。


どちらにせよ「人は人、自分は自分」と思えるようになった高校生くらいまでは、なんとなく心の中に「不安」や「寂しさ」を抱えていたのは確かです。
一人で溜めこんでいたものが爆発してしまい、「どうしてこんな家に産んだんだ!」と両親に泣きながら叫んでしまったのも、小学校中学年のころでした。


誰かにとっての「普通」は、決して他の人と同じ「普通」ではない。自分の「普通」を基準に物事を考えてしまう怖さを、最近、再び感じています。

それは全て自分にも言えること。
どこかで、私の基準で、私の価値観で誰かのことを見てしまってはいないだろうか。
そして何気ない一言で他人を傷つけてはいないだろうか、今一度、自分自身に問いかける機会を頂いています。


幸せや、不幸せは、
本人以外の誰かが判断できるものではない。
可哀想かどうかは自分で決める。


特に、子どもに対しては、大人は言葉選びに特に気をつけたいですね。自分の子どもに対しても、他の子どもに対しても。

ワガコに対しては、他の方からもしネガティブな言葉を言われてしまっても跳ね除けてしまうくらいの
「幸せだね」という言葉で、包んであげたいなぁ。


不思議です。
自分の環境は何も変わっていなくても、周囲からの何気ない「ことば」によって、感じ方が変わり、同じ物も、同じように見えなくなっていく。

「ことば」にそんなパワーがあるならば、どうせならプラスでポジティブで明るい「ことば」で自分や他の人の心を変えられたらいいな。