谷垣雄三先生との思い出 | 三原朝彦 ~あさやんブログ~

三原朝彦 ~あさやんブログ~

前衆議院議員
自由民主党福岡県第九選挙区支部長のブログです。

 私が先生が活動しておられるニジェール国のテッサワを訪ねたのは記憶が正しければ1993年の夏です。


 ニジェール国の名や所在地をすぐに判る人は我国にどれ位存在するでしょう。この国はアフリカのサハラ砂漠の南側にあり広さは1300平方キロ(日本の約4倍)、人口は2000万人で首都はニアメ、1人当り年間国民総生産は400ドルに届くか届かないか、世界でも最貧国の一つです。


 ニアメから東に700キロ進めば人口3万人のテッサワに着きます。一概に3万人と言っても何も高いビルがある訳でなく砂漠の中に広がった小さな町で、商店街があるでも無し何処が町の中心か判りません。その町の一隅に谷垣先生が私財を投げ打って建設したベッド数百十床のコンクリート平屋建ての病院があります。


 私と先生の出会いは先生がこのテッサワで私設の病院を建てられる以前、1990年でした。その時先生は国立ニアメ病院で外科医として働いていてそこで私はJICAの医療支援の現場視察で訪ねた折に初めて出会いました。


 先生の第一印象は医師と言うより白衣を着ていなければ村夫士然で、話も朴訥、細身に眼鏡をかけたこの体の何処に地球の裏側の最貧国の砂漠の国に来て病気の患者を診るエネルギーがあるのだろうかを只々感じ入りました。しかし外見は全く豪快さは見えなくても一度貧者への医療の話になると情熱の迸りは止まる所がなく、その時から「私はこの国で骨を埋めます」と先生は明確に発言していました。
 今も12時間かけてテッサワの先生に会いに行った日を思い出します。朝6時に首都のニアメを出発し、砂漠の一本道を延々と12時間、途中で停まるのはトイレ休憩のみ、車のボンネットを素手で触ると火傷すること間違いなしの気温でした。


 時々遥か遠くに草を求めて牛や山羊を追う少年達が見えました。よくもまああんな炎天下で働く者もいるものだと只々感心したりしました。それ以外は四方砂漠で全く単調なドライブ、行き交う車もたまに貨物運搬の大型トラックがある位で、万が一車が故障でもしたら一大事なので予備の車を後ろに付けて一路700キロ東のテッサワを目指したのでした。


 テッサワに近づいた10キロ程手前に道を股越す横断幕が見えました。その幕の下には私達を出迎えるため谷垣先生と病院のスタッフ、更には地元の県知事や町の知名士が総勢30人程立って私達を待っていました。それから先は先導車に従って私達はまるで凱旋勇士のような歓迎振りで、誠に面映ゆい光景でした。
 先生のお宅に2日間滞在しました。町にホテルがあるでなし、先生には迷惑とは思いながらも他に手立てはありません。食事も先生の世話役の夫婦が私達に手作りのニジェール国日本料理もどきを作ってくれ、先生の日頃の食生活に触れる事も出来ました。


 久し振りに日本人と日本語を話すのが嬉しかったのでは無いでしょうか。先生はフランスに行った折に買って来た高級ワインを何本も空けて私達に振舞ってくれました。私は酒は飲めませんが同道した人達は美味い酒を十分堪能したそうです。


 隣接する病院を訪ねました。先生はそれこそ夜明けから日没まで診察から手術、入院患者の検診と休む間もなく働いていました。そんな光景を見ると私自身自らの無力をしみじみ反省するのです。文科系の人間ってこう言う現場では邪魔にはなっても全く物の役にも立ちません。


 先生の家の敷地内の裏庭にアフリカの風土病で既に亡くなった奥様の墓が建ててありました。その隣にこんもり盛り上がった土地がありました。そこが将来自分が埋められる所ですよと先生が示しました。奥さんと共に異郷の地で生涯を終える覚悟の先生に私たちは何と反応すべきなのか、只々畏敬の念で先生を私達は見遣りました。


 あっと言う間に2日は過ぎ、先生や病院のスタッフに見送られながら同じ道を又700キロ、車を飛ばしてニアメに無事戻って来ました。


 あの旅からもう14年の年が過ぎました。先生から来るクリスマスカードを見ながら先生の活躍を思いつつもうこんなに年が経って仕舞いました。今一度先生の激励にテッサワ迄と思いつつ、先生と再開する機会を逸し、先生は永遠の国に旅立たれました。先生の奉仕は筆舌に尽くせない崇高なるものです。自らの命を削ってまでニジェールの人達の為に貢献する、口では言えても行動では私達如き凡人は真似が出来ません。先生を称して和製シュヴァイツァーと言う人がいます。私は寧ろ元祖谷垣と言いたいのです。谷垣先生の前に谷垣先生なし、谷垣先生の後にも谷垣先生なしです。


 谷垣雄三先生ご冥福をお祈りします。奥様と再会され安らかにお眠り下さい。