三原朝彦 ~あさやんブログ~

三原朝彦 ~あさやんブログ~

衆議院議員
自由民主党福岡県第九選挙区支部長のブログです。


 今上天皇の即位の礼の折のお言葉の中に「平和」の二文字が三回も出て来た事に皆さんは気付かれたでしょうか。私は、戦後皇室は平和を第一の希求するものとして心を遣って来たと思います。平成の代の天皇も退位の折に直接マスコミを通して心境を述べられましたが、戦争の無い三十余年であった事に言及の場面では声をつまらせておられたのが今も私の心に強い印象として留っています。

 

 戦争はしてはいけない、させてはいけない、これは私の信念です。人間は度し難い生き物ですから本当なら戦争を起さない為には非武装をと思うのですが、現実はそうは行かず、実力、武力で事を決しようとする場面が有史以来続いている事も事実です。戦争抑止の為に武力を持つ、何と言う矛盾でしょう。

 

 戦争はしてはいけない、させてはいけないと常に思ってはいても武装の必要性の現実を同時に認める矛盾の中で私達は生きているのです。

 

 この矛盾に対し弁解する訳ではありませんが、常に戦争の無い世界は無理でも、日本は何とかこの理想を忘れない様にと私は具体的行動として月に一度は静かに靖國神社に参り、英霊に二度と再び戦争は致しませんと誓い、二年に一度戦跡慰問に我国戦闘の爪痕のある戦地に赴き、戦死した兵士や戦争犠牲者の人たちを弔う旅をしています。

 

 少し前書きが長引きましたが今回は、近々ミャンマー国境のインド領インパールを訪れますから、このインパール作戦に関する本を二冊読みましたから感想を記します。本来ならインパール訪問後、帰国して体験も含めて一文をものすべき所でしょうが、お許し下さい。旅の印象は又別の機会と言う事で。

 

 「インパール」、「抗命」は共に高木俊朗が著者で出版は文春文庫です。何故南アジアの入口のインドの東端、インパールに迄我国旧陸軍は兵を進めたのか。この点に関する議論は「インパール」の中では深くされてはいません。陸軍の東南アジア侵略に対する理論付けは、大東亜共栄圏の構築、即ち彼の国々が西洋植民地支配からの独立を勝取り、日本を中心に兄弟のように仲良く共に繁栄して行く為の戦争であると言うものでした。故に旧ビルマに日本が兵を進駐したのもイギリスを撤退させビルマを解放させる目的と一応はなっていた事は御承知の通りです。

 

 ビルマの隣国はインドです。ここにはイギリスの正規軍がいて、未だインドを植民地化し、宗主国として君臨していました。この折インドで独立を願うボースなる人物がいて、インド国内で国民軍を作り活動を始めようとしていました。

 

 日本はこの機会を利用すればインドに侵攻して、イギリスのアジアにおける影響力の息の根を止める事が出来ると気宇壮大な夢を抱いていたのです。何しろ当時のイギリスの植民地であった香港、マレーシア、シンガポール、ビルマ(現ミャンマー)と東の方から次々に日本軍は占領して行き、次の西隣はインドだったのです。

 

 その当時の日本の軍事力を見ると、海軍は1941年12月の初戦の真珠湾攻撃では勝利しました。しかし、翌年6月のミッドウェー海戦では当時持っていた八隻の空母のうち、四隻を失う大打撃を受け、制空権を持つ者が戦争では有利となる近代戦での鉄則を理解し始めた海軍は以後の作戦に苦労するのです。第一次世界大戦以後制空権を持つ者が海上であれ、陸上であれ有利に戦え、勝利の公算が大である事は海軍は勿論陸軍でも認識されて来ていました。

 

 インパールは侵攻以前に日本が作戦を実行したのはソロモン諸島の一つのガダル島の航空基地化です。この地を基点にしてパプア・ニューギニア島、そしてその先の豪州への進出と言う今考えても全く成功の可能性の薄い遠大な計画を進めました。結論は1942年から43年にかけてのガダルカナル島争奪戦は完敗して辛うじて玉砕を免れて陸軍は撤退、航空基地は米国の手に落ち、ガ島を始めとするその周辺の制空権は米軍が支配する所となりました。

 

 インパール侵攻作戦は前記のような厳しい戦略状況の下で起死回生の作戦として強引に個性の強いビルマ方向の司令官牟田口中将の下で計画されました。海軍はミッドウェー海戦で戦力半減、陸は中国では一進一退の膠着状態、南太平洋に活路を求め、陸海協同で進出を計ったガダルカナル島占拠は失敗の終わり、今度こそと西に兵を進めインドに存る英軍に一矢報いようとの考えです。

 

 「インパール」、「抗命」のどちらを読んでも出るのは溜息許り。この作戦の無謀さに只々呆れ果てるのです。ガダルカナル島での敗北の原因の一つは明らかに制空権を失い次いで制海権をも封じられ、糧食、武器弾薬の補給が出来ず、兵士の飢餓と疾病に苦しみました。この悪しき経験が全くインパール作戦でも生かされなかったのです。糧食は現地調達を最初から当てにし、峻険な山脈を越えてビルマからインパールのあるインドに入るのですが、車道があるでなし、前人未踏の山道を分け入り、重い兵器を人力で運び、ですから自ら持てるだけの物を持って何とか兵士は前進しても、自らが持つ武器弾薬以外補給しようにも手立てがない事は作戦を開始する前から判っていました。

 

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」は兵法の基本です。ところがこの作戦下でも相手の英軍の兵力は全く把握しておらず、アバウトの意識でまさに「行け行けドンドン」の精神第一主義がここでも罷り通っていました。進出する地域の地形を示す地図も無く山があれば登り、谷があれば下り、川があれば渡りですから、日時を決めて前線基地を作る事は出来ません。ですから部隊毎に動いたとしても横の繋がりや意志の疎通に難渋します。イギリス軍や現地のイギリス軍協力者に日本軍の動きは十分把握されていて、空からの攻撃で対抗手段の無い儘、我方は犠牲者を増やして行きます。その間飢餓と病気が兵士を襲い、戦闘以前に体力を失って行きました。

 

 軍による公の戦闘日誌に頼るだけではなく、著者は生き残り帰還者とのインタビューで生々しい作戦の有り様をも記しています。他の戦記の例に漏れず日本兵の接近戦、肉弾戦の描写では奮戦敢闘はここそこで見られますが、日清、日露と同様に最後は抜刀して突撃が当時の死に方で誠に哀れを誘います。今一つの日本軍の典型の夜襲もここでも見られます。しかしこの手は相手に十分承知されていて、まさに飛んで火にいる夏の虫のように上等な兵器の攻撃で屍を累々と積重ねることになるのです。

 

 始めから糧食も、武器弾薬もままならない現実を十分判断し、どう考えても敵と一戦交える準備に欠けると認識して部隊を上部の命令に反して撤退させた佐藤中将の物語が「抗命」です。彼は兵を引連れ敵軍と対峙する近く迄進んだのですが、兵士の志気は上っても飢餓疾病で戦う体力がなく、又御多分に漏れず彼の部隊には十分に戦うだけの武器弾薬も補給して貰えずで、司令部の命に抗して独断で撤退を決意し、部下を無駄死にさせる事に反対したのです。

 

 佐藤中将の決断は上司への反抗ですから、彼は戦線を離脱させられ新たな中将に職責を奪われる、軍人としては屈辱を味わいます。彼は自らの決断は正しいと信じて抗命したのだから堂々と軍法会議でその是非を決して貰う覚悟でした。彼の上司達は明らかに彼の決断が正しい事を認めざるを得なかったのですが、そうすれば軍の秩序が得られないと思い、何と彼を心神の耗弱にあるとして除隊を命じたのでした。

 

 日本陸軍が敗北した数々の戦闘で必ず問題になるのは彼我の武力の差があるにも打ちてし止まんの精神中心主義で戦いを挑む点です。「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓の徹底からでしょうか。前進か死かの択一が第一の選択です。本当に人の命が当時は羽毛よりも軽く、空気よりも手安く取扱われていたのです。そんな中でこの佐藤中将は合理的に戦況を判断し、ここは一番一度は退いて時期を待つ決断に至ったのですから大したものです。この様な将軍がもっといたならば先の大戦で260万もの兵士の戦死を出すことはなかったでしょう。只敗戦は遅かれ早かれ日本は受取めねばならなかったでしょうが。

 

 12月中旬に私はインパールに行って来ます。「戦争をしてはいけない、させてはいけない」の固い決心の下、我国の兵士達が散華した彼の地を訪ね、その意が更に硬いものになるでしょう。国政に席を置く間、私の戦跡慰問は続きます。

 

 過日友人と久闊を叙した折、氏から先の大戦中、リトアニアから日本に出国申請するユダヤ人6千人余にビザを発給した杉原千畝の話と共に実はその人数の三倍以上同様にユダヤ人にビザを発行し、当時のソビエトから満州国への入国を認めた人がいると聞きました。この話は寡聞にして知らず私は早速国会図書館に出向いてこの人物、樋口李一郎陸軍中将に関する本を二冊入手しました。氏自身の回顧録と今日の一冊、「指揮官の決断」(早坂隆・文春新書)です。

 

 樋口が当時少将として関東軍下ハルピン特務機関長としての職務にいた1937年、欧州方面はドイツの拡張政策が更に力を増し、近隣諸国に脅威を与えていました。又国内的には反ユダヤ主義で、ユダヤ人の迫害が強まり、国外に移住を求めて東に西にユダヤ人の動きが起っていました。その頃は未だドイツとソ連の間は戦争に至っていませんでしたから、東を目指すユダヤ人はシベリア鉄道で満州の国境付近まで来ていました。ソ連側の国境の都市はオトポール、例のノモンハン事件のあった地域のすぐソ連側です。

 

 オトポールに滞在しているユダヤ人にとり満州国(当時一応独立国だった)入りのビザは死活の問題であり、これが上手く行けば欧州で迫害を受けるユダヤ人には朗報となり、ユダヤ人逃避のルートとして更に難民は東を目指す勢いでした。僅か数百人のオトポール滞在者だったのが日を追って増えてきていたのです。

 

 ビザ発給の権限は満州国にあったのですが実権は関東軍にあり、軍が認めれば国の意向は心配無しが実情でした。樋口は直接ビザ発給の権限を持ってはいませんでしたが、自らの責任、つまり関東軍の司令官やナンバー2の参謀長の意見上申することなく満州国外交部にビザ発給を働きかけ、鉄道による移動にも協力し、38年から3年間に2万人とも言われる(この数字は正確ではないが)ユダヤ人の満州国入りを許可しました。

 

 では何故ユダヤ人へのビザ発給に樋口は尽力したのか、これに関し当人は明確な答を示してはいません。著者はこの件について主に樋口の回想録から読み解いています。即ち樋口の行動の基となった心情は第一に純粋に人道的立場に立っての事であり、次に日ロ戦争以来の対ユダヤ関係の良好な維持を求めての事であると著者は述べています。

 

 このオトポール事件が杉原のリトアニアビザの一件のように世間に知られていないのは何故か、これが読後に私の頭の中でひっかかっています。事の顛末は読者がこの本を読んで頂けば良い事だと思いますが、ユダヤ人を救った人数からすれば樋口の方が多いのですから悪くても同様の扱いが適当と思うのです。一つには関東軍の軍人がユダヤ人の救援に手を貸したことが不評だったのでしょうか。それともビザを貰った人達が英雄的行動をして一人一人に日本入国許可のサインを与えた杉原を面と向かって知るに至ったのと違い、樋口の場合は現場に命令をしてビザを発給させた訳で本人がオトポールに姿を現したのではないので、ビザを得たユダヤ人は満州国の決定とだけ認識し、発給過程の樋口の決断の重要性を判らなかったからでしょうか。

 

 しかし戦後シオニズムの開花としてのイスラエル国建国の時にこれに関与した人達の名が記された「ゴールデンブック」がイスラエルにあり、これに樋口の名が刻まれていると著者は現地で確認しています。私としては満州国における関東軍の行動に対する批判はこれからも大いに議論すべきですが、樋口個人が自らの責任で決断したオトポールのビザ発給の一件は軍人と言えども人道に則った行動であったと堂々と評価されて良いと考えます。

 

 歴史を通し私は批判精神の涵養に努めようとしていますが、その片隅にある人間の決断にも悲憤慷慨と同時に心暖まる場面に出会います。歴史への興味は尽きません。

 安倍内閣は憲法改正を今後挑戦すべき政策の第一として掲げています。その内容は4項目(9条における自衛隊を明記、26条における教育の充実、47条における参院選挙の合区解消、73条における緊急事態の権利運用)です。勿論どの項目を取上げても侃々諤々の議論が行われる事は予想されますが、特に9条の改憲は最も困難な作業でしょう。

 

 ここに9条問題に関し興味深い1冊「9条入門」(加藤典洋・創元社)が上梓されました。著者は私と同世代、戦後ベビーブームの生まれ、氏は先きの大戦を踏まえての戦争と国家や国民の責任について述べた書があります。今回の書は今日の憲法9条の成立・当時の国内外の環境を調べ、被占領国日本が憲法問題に関し事ある事に百家争鳴の議論を起す元であるこの9条の生い立ちを史実に当たって説明しています。

 

 9条に関する議論になると必ずでる批判が「この憲法は占領軍つまり米軍からのお授かり憲法であり、日本国民自ら辛苦して作り上げた物ではないので改憲すべき」です。氏のこの点での考えは当時の占領軍司令官マッカーサーの指導の下で今日の憲法が作られた事を否定してはいませんし、その作られる過程のマッカーサーと当時新憲法成立に関与した日本側の人達との関与を興味深く教えてくれます。

 

 氏は現憲法の成立の過程における占領軍の関与を越権行為と見做す感情はないようです。寧ろ先きの大戦で枢軸国として我国と共に戦ったイタリア、ドイツが戦後敗戦を経験した後、新憲法を作るに当って考慮した戦争放棄、国家の自衛について、彼の国々と我国の差異について我国の国内事情つまり天皇の存在との関係を織り込んで現憲法成立の流れを教えて呉れます。

 

 現憲法成立時は日本側もマッカーサーも短時間ではありますが、どうも本当に非武装下で世界の正義を信じ、生まれたてほやほやの国際連合の集団安全保障に自国の存亡を委ねる理想論を画いてもいたのです。しかし、1950年の朝鮮戦争を目の当たりにし、1952年我国が独立し、既に米ソ対立の冷戦構造のある中で憲法9条の理想論解釈は少数になり、以後我国政府は御存知の通り9条下でも自国を守る権利は保持していると考えて軍隊ならぬ自衛隊を持って来ています。

 

 先きの大戦後70有余年、冷戦対立終結後、遂に戦争の無い世界が到来するかと期待されましたが、これは裏切られ、今日も地球上の何処かで戦争があり、大国同士のイザコザがあります。このような不安定な政情下、理想を求めて作られた我国の憲法下の9条が今日改憲の俎上に乗っていることは国民に今一度国の平和と安全は如何にすれば維持出来るのかを真剣に考える機会です。著者の言う如く我国憲法の本質を知る為に、その成立の原初から学ぶべきであると思うので私はこの本を手に取りました。憲法成立過程を知る上で面白く読める本です。

御存知だとは思いますが、私が力を入れる対アフリカ政策に関する我国の一大事業が

TICAD(アフリカ開発会議)で、去る八月二十八日から三十日の三日間横浜の地で第七回の会議が行われ、アフリカ諸国の首脳が三十名以上もが参加しました。二十世紀の後半に地球上最後のフロンティアと言われ、又二十一世紀の五分の一が過ぎようとする今日も又そう言われ続けるアフリカ、この地域の指導者達が一堂に会し、我国の政治、経済のみならずオールジャパンの代表者と議論し、行動策を練る場であるTICADが盛り上がった事は当然でした。

 

 TICADは我国が主導して三年に一度アフリカの人達とアフリカを語る場として意義ある会議です。しかし変化著しい今日のアフリカに思いを致す人達はどの位我国に存在するのでしょう。残念ながら私を含めその様な奇特な人(自分で言うのも図々しいですが)はまだまだ全くの少数派です。そんな人の中でジャーナリストを経験し、それを基礎に学者になって、自ら研究に勤しみ、学生を教育して彼等にとって未知の国々アフリカ諸国に誘っている人がこの本「アフリカを見る アフリカから見る」(白戸圭一・ちくま新書)の著者です。

 

 著者が実体験をして来たまさに本の題名そのものを先ずは四章に分けてアフリカ専門でない人にも理解し易く話を進めていて、一応アフリカでのニュースになる問題を読者は学ぶことが出来ます。ジャーナリストから学者になった著者ですが、話の内容は学術的よりも寧ろ一般向きですから誰でも読み進めて行けます。

 

 我国のアフリカ進出は残念ながら国の援助も、アフリカ諸国が渇望する民間投資や貿易も期待程ではありません。と言うのもここ二十年中国の彼の地における活躍は目覚ましいものがあり、これと比較すれば遠慮勝ちと揶揄されても反論は出来ないでしょう。

 

だからと言って我国は自らを卑下する事は無いのでして、著者も唱えるように自国流を発揮してアフリカ諸国と日本との関係をウイン・ウインにする努力が必要なのです。つまり私達の念頭にすぐ出て来る中国と比較しての思考は正しく無いのです。中国は中国の国益に沿ってアフリカに眼を向け行動しているのだし、我国も同様の意識で行動すれば良いのです。まあ、確かに政治的にも経済的にもアフリカへの影響力は中国の凄さは我国は比肩出来ませんが。

 

 アフリカを知るⅠ部を読むとⅡ部はアフリカ専門の学者との対談を通して日本のアフリカでの役割について「アフリカに潜む日本の国益とチャンス」という主題で話が進められます。彼等の頭にもアフリカにおける中国の存在、影響力は強く印象づけられていて、対中国比較の中での我国のアフリカでの役割が語られます。即ち日本の分を弁えつつ、現状から少しづつでも挑戦する姿勢が期待されています。民間の貿易や投資にはコスト・ベネフィットと同時に新しい地平線を目指す勇気が求められ、又政治的には紛争がここそこにあるアフリカにこそ我国も国際社会の一員として平和構築の一役を担う重要性が語られます

 

 著者の論は誠にもっともと私は読後思いました。理想をブチ回るでもなく悲観論に陥るでもなくこの本をたまたま手に取った人にもアフリカへの興味を持たせる役割をチャンと出来る一冊でしょう。