(162)私の古墳の楽しみ方(その4・葺石と埴輪)

あまり有名でない古墳を見つけて墳丘に登ることができた時は、とても幸せな気持ちになるのは古墳マニアとして当然のこととして、葺石の痕跡や埴輪の破片がないか目を凝らしてしまうのは、もはやマニア癖の何物でもない。

◎葺石の配置状況と種類を楽しむ

葺石が有るナシは県や国の史跡レベルの古墳ならば説明版があって、記載されていることは多いが、市や町の史跡レベルになるとなかなか書かれておらず、古墳名が書かれた立看板が関の山だから、墳丘に登ってみて初めて葺石の存在を知ることも多い。


〇配置状況

古墳好きの方々には当たり前のことだが、墳丘に石が葺かれているといっても、私たちが確認できるのは、表面に密集して露出した主に川原石を見つけた時ではないだろうか。
発掘報告書を見ることができた場合にはじめて全体像が想像できる程度だ。



私の知る限り、墳丘の全面に葺いた古墳はまれで、
墳丘の保護のために斜面のみ葺いた古墳が一番ポピュラーではないかと思う。

2段・3段築成のテラス(各段の平たい部分)のみ、あるいは平面(前方部と後円部の上とテラス)に葺いたもの、外から見える場所だけ葺いた古墳などがある。時の権力の大きさや財力、あるいは近くに川があるかどうかで違いがあるように思う。



〇葺石の種類

 


圧倒的に川原石が多い気がする。
まれに自然石や割石らしきものも。


◎埴輪の種類と配置を想像して楽しむ 

古墳の現地案内板や博物館でしか見られない埴輪!

埴輪は、古代の吉備(岡山~広島)地方で、弥生時代に築造された「弥生楯築墳丘墓」などに見られる「特殊器台」が、簡略化されて埋め込み型の円筒埴輪として全国に広まったと言われている。

 

 

 

この埴輪がヤマト王権の前方後円墳と融合して古墳に配置されるようになったようだ。


古墳時代初期の3世紀後半、奈良の箸墓古墳などに初めて円筒埴輪が配置され、

その後に形象埴輪や動物埴輪、古墳時代中期以降に人物埴輪が登場し、6世紀終わりには前方後円墳の消滅とともに突然見られなくなる。



世間一般的には埴輪と古墳はセットなのだが、大きな古墳なのに埴輪がないもの、小さい墳丘なのにしっかり配置してあるものなど、前方後円墳が許可制だったのに対して埴輪の配置の有無には明確な基準がなかったのではないかと思われる。


〇形象埴輪
 
①人物埴輪


 


 

 

 兵士(武人)

 


 巫女

 


 踊り子


 力士


 

 鷹匠


 楽器奏者 


 

※北九州では磐井の君の岩戸山古墳などに石人が該当する

〇器材埴輪 
 
 祭祀道具(高坏・杯)


 

 武器(靭形・盾)


 蓋(きぬがさ)

 

帽子(とんがり・両脚輪状)


 

〇動物埴輪

 馬(馬具付き・農耕馬)



 猪


 鳥(鶏、水鳥)


 


 猿



表面が赤く塗られた形象埴輪や様々彩色されたものもある。
  
 

〇家形埴輪

 王の館


千木や鰹木がすでにある。

 

子持ち館

 

家形

 


 水の館(水の祭祀場)


 柵

 





〇円筒埴輪

弥生時代後期
 「特殊器台」(高い円筒上の焼き物の上に壺が乗る)



 

古墳時代初頭  
 特殊器台の器台と壺を一体化させた「朝顔型円筒埴輪」

 

古墳時代前期~
 「鰭付円筒埴輪」・「円筒埴輪」

 





〇埴輪の配置状況

 円筒埴輪は、墳丘頂部、テラス(段の平坦面)、周提帯の上(大仙陵古墳など)に並べられることがほとんど。 


 形象埴輪は、墳丘頂部に方形に配置されたほか、テラス(段の平坦面)、「造出し」の上にも並べられている。

 埴輪の大行列は大阪の「今城塚古墳」や

 

群馬の「保渡田八幡塚古墳」などで見ることができる。


 

これらは「葬送儀礼を再現した」説や

 

 

「首長権継承儀礼」(群馬・塚廻り古墳群4号墳)、

 

あるいは「当時の王宮」をイメージした説がある。

また墳丘の円筒埴輪などの配列には、「聖域を区画する」役割や盾形埴輪は「魔よけ」の意味があったなど諸説ある。



埴輪が造られた窯跡なども見どころではあるが、実際とても地味な光景しかないので、ついパスしてしまうのが素人の私。



引用・参考/西都原考古博物館・伊都国歴史博物館・今城塚古代歴史館・かみつけの里博物館・高崎市観音塚考古資料館・東京国立博物館・芝山古墳はにわ博物館・国立歴史民俗博物館・岩戸山歴史文化交流館・藤岡歴史館など