熊本時代の続きです。
実際に基地の環境、雰囲気はどんなのだったのか?
「隈庄飛行場工事の記録 熊本県下益城郡城南町舞原・旧陸軍飛行場記」
中に、牛田さんという三船さんと同隊におられた方のインタビューを
抜粋しますと
・1944年8月1日に赴任
・当時、16歳~18歳くらいの男子が赤いトンボ型の飛行機を使って
飛行訓練をしていた。
・在隊兵隊の年齢層は高く、力が弱いと感じた。若い者は遠くの戦地に
出て、人がもういなかった。
・牛田さんは被服係。衣類の調達と管理。倉庫に泊まり込み。
だけど環境の悪さにその後、三角兵舎に移動。
・最年長兵隊は47歳
・食べ物は無料、一週間に一回は酒が出た。つまみに飯場からいりこを
拝借し飲んでいた。
・食糧事情が悪く、配給のタバコを米に替えてもらったりした。
・娯楽は、隅之庄の街で見る映画ぐらい。
・特攻隊に行く若者が2、3日、宿舎に泊まっていた。
・特攻に行く若者たちの食べるものは恵まれていた。
・この飛行場から、夜の12時に3機ずつ飛び立った。
18~20歳の青年兵が、発つ前には手を振り元気いっぱいで、悲しい表情
は見せなかった。覚悟ができていて、立派だった。
・8月17日になって部隊長が軍を解散。だけど軍の統率力は既に崩壊。
当時、70~80名が在籍でしたが、残っていたのは20~30名だった。
・1人、60円が支払われ汽車は無料。故郷がある者は帰った。
ちなみに三船さんが気象班だと記載されているのは牛田さんの証言のみです。
八日市基地から8月16日に飛行機が飛ばされ、隅之庄にも部隊解散の旨が
伝えられたといいます。
さて、この基地での三船さんは何を想っていたのでしょうか?
以下は三船さんのインタビュから。
「熊本県の下隅之庄にある特攻隊基地にやらされました。
若い学徒兵、少年航空兵などを訓練したわけです。いまでも、あのころの
何か惨めだか、何か高揚した緊張した場面の数々を思い出します。
毎朝、沖縄へ飛ぶ飛行機は二機か三機。それも、日本中から、少しイカれた
故障機を寄せ集めて整備し、出撃されるんですからね。機長、副機長は、
おおむね学徒出陣組。乗員は少年航空兵。みんな若くて純真でした。
出撃の前夜など、ある者はヒロポン(覚醒剤)を打ち水盆をくらい、
またある者は瞑想にふけるなど、死を覚悟して人生いかに生きるべきかを
彼らなりに悩んでいたんです。
こうした連中は、一度飛び立ったら、絶対かえってきません。
その点、下士官あがりの連中の中には『エンジンが少しおかしいぞ』と
いって帰ってくる。その人たちには、女房子供もいるし、それなりに理由は
分かるんですが・・・。」(「人生は甘いもんじゃあない」より)
言葉少なですが、若い兵を見守っていた感じがとても伝わります。
決して、生半可では彼らを見ていなかったでしょう。
無謀な飛行機で、若い純真な魂が散っていく姿は心が引き裂かれます。
ましてや、遺影というぐらいですから出撃直前に撮られるものでしょう。
もう帰ってこない若い子の写真を撮る仕事はきっと辛い苦い記憶なのでしょう。
そして、基地を焼き尽くしてしまう終戦5日前の空襲。
もしかしたら彼らの遺影や遺品などもすべて焼失してしまったのかもしれません。
お国のためにと、彼らなりに人生を思い、家族を思い、死んでいった彼らの遺した
ものすらなくなってしまったという気持ちは計り知れないものがあります。
私の予測も入っていますが「やりきれない気持ち」なのだろうと、最初に感じた
気持ちは、あながち間違いではなかったと思いました。
そして、8月15日を迎えます。
「8月15日前に、敗戦を知っていたので、その日を待たずに、私は八日市の本隊へ
帰ろうと『バンザイ』と叫んで基地をとびだしてしまったのです。
そりゃ、解放感はありましたよ。オンボロ飛行機を修理し、つぎつぎに少年たち
が南海で散り急ぐんですから、日本は勝てっこないと、私にも一抹の不安と焦り
があったからです。
これで、オレも助かるとね。」(「人生は甘いもんじゃあない」より)
「敗戦を知ったときは、心底から悲しかった。
生まれ故郷の大連は異国の地になってしまうし、戦争が激しくなってきたころ
父が亡くなったからでもある。
日本人でありながら、外地で生まれ、外地で育った私にとって、祖国日本は
外国のようなものであった」(「”サムライ根性”と人は言う」より)
助かった、戦争が終わるという解放感と、もう故郷には帰れないという悲しみ。
増して、戦時中にお父さんを亡くしてしまうという不幸もあって、余計に
色々な気持ちが混濁していたんだろうなと思うのです。
しかし、終戦を待たずして基地を飛び出してしまうなんて・・・。
あともう少し待っていたら、一人60円の現金がもらえたかもしれないのに。
だからこそ、持ち物はきっと「毛布二枚」だけだったのでしょう。
青島で生まれ、写真屋のボンボンだった三船さんは、”故郷”日本で裸一貫から
また一からはじめることを決意するのでした。
その約一年後、東宝ニューフェイスに補欠合格することになるのです。