ヲタが、三船敏郎に恋をした。 -2ページ目

ヲタが、三船敏郎に恋をした。

時代、世代を乗り越えて”あの男”がやってきた!!!!

昭和20年8月15日

あなたは、何をしていましたか?

ある人は、慟哭し
ある人は、無気力になり
ある人は、不安にかられ
ある人は、これからの日本映画を想い
ある人は、”ざまぁみやがれ”と思った。

暑い、夏の日。

日本敗戦の日。

それは一人の、外地で生まれた一人の男が
裸一貫で前を向いた日でもあった。

長く、酷い戦争は確かに終わった。

でも、その後は?

いきなりニューフェイスになったわけでもない。
食うために色々と職を転々とする。
いきなり、幸運に恵まれた訳ではないのだ。

そして

三船敏郎の「戦争」とはなんだったのか?




「七年間の軍隊生活で学んだものといえば、なんだろう。
戦争批判のこれっぽっちもできないなかで、ただ聖戦のために
身を捨てるというだけでした。
いま思えば、なんてバカらしいという人がいても不思議でも
なんでもないでしょう。ただ、エゴイズムの人間同士が裸で
ぶつかりあう集団生活をして、その規律の中から、なにかを
得たと信じます。ただ、それだけです」
(「人生は甘いもんじゃあない」より)

戦時中には「日本、負けるんじゃね?」とか「戦争はんたーい」
なんて口が裂けても言えなかった時代で、とにかく捨て鉢のような
生活を強いられてしまったことが分かります。

8月15日を迎えた日本について、三船さんはこう言っておられます。

「昭和二十年の八月十五日、敗戦。
近ごろ終戦とか、カッコいい表現をしていますが、あれはまさに
敗戦です。日本が勝負に負けたんです。
これをしっかりと認めないと、このあとの気持ちや行動がフヤけて
しまうのではありませんか。
負けたから、くやしいと思えばいいわけです。
そこにエネルギー源がひそんでいるともいえるんでしょう」
(「人生は甘いもんじゃあない」より)

「敗戦」のものの置き方を、こういう風に考えられるのって
なんか、いいですよね。
負けたから、もういいんだ。もう知らない!なんてするんじゃなくて
(どちらかというと凹むのは私の性分ですが)
それを源に、負けるもんか!とエネルギーにしたのです。

外地で生まれ、外地で育ち、そして戦争を機に始めて降り立った
”故郷”日本。
両親を失い、全てを失い、まさに裸一貫になった三船敏郎。

彼はその後、熊本まで汽車を乗り継ぎ、ヤミ屋や進駐軍用のコカコーラ
工場で整地の仕事をしたりしながら、これではいかんと横浜の知り合いを
訪ね、大連や戦時中に鍛えた写真技術を活かそうと東宝にいる先輩に
履歴書を送ることになります。


これが戦時中の三船ちゃんの記録です。

今回、色々調べていき思ったのは、記録を残そうとしてくださっている方々の
気持ちでした。
「熊本・隅之庄」の記録を書かれた立山さんのことを挙げますと、筆者の立山茂
さんは、記録を書かれて本にされる前に、既に亡くなられておられます。
その後、何とか残したいという娘さんやお孫さんの意思で資料として残っていました。
三船さんがご縁で、本を見ることができました。
戦時中の記録はもちろんのこと、本を作られるまでの気持ちなども明記されていたので
それにもとても感嘆しました。


では、この記録をしめくくるにあたって、三船さんの「背広」についての”答え”
を書かせていただきたいと思います。

「学生服、制服の幅をきかせた時世にあって背広を愛したんですから・・・
背広を着ることによって、制服いってんばりの時世にささやかなレジスタンスを
したんだと自負しているんです」

軍服でも制服でもなく「背広」

そして戦時中に着るという、彼なりの「レジスタンス」

それが「俺なりの、ジャスティス」だったのではないのでしょうか?

そう考えると、答えが見つかった気がしたのです。

戦争中も彼なりの”正義”に基づいて、頑固ながら生きてきた。




全部含めて、それが「戦時中の三船ちゃん」


その言葉で、締めくくり終わりたいと思います。