7月・文月を迎えると明治・大正・昭和の文壇で活躍した作家の文学忌が続きます。

日本特有の梅雨の合い間に、夏の風物詩として名高い「朝顔市」が入谷に立ち、それを追うように浅草では賑やかな「鬼灯(ほおずき)市」が開かれます。

時代は変わりましても、初夏から行われる神事や祭りには土地それぞれの思い入れが生じ、心逸るものがあるかと思います。

森鷗外は9日に60歳の生涯を閉じ、のちに「鷗外忌」として偲ばれることとなりました。

7月6日付けの遺言の中で『余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(よはいわみじんもりりんたろうとしてしせんとほっす)』と、その意志を記しておりまして、東京三鷹・禅林寺、出生地である島根県津和野の永明寺に建てられた墓石には、ただ「森林太郎」の文字が刻まれているのを目にした・わたくし…この世から消えたとて遺志をつなぐ活字の力強さを改めて感じ入ったものでした。

24日は「僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」の遺言を残し、服毒自殺した芥川龍之介の祥月命日を迎えます。

芥川最後の作品となった短編小説「河童」から取り『河童忌』と名付けられました。

この忌の名を芥川龍之介はどう思っているのでしょう。

唯ぼんやり…「河童か…」と苦笑いしているのではなどと思っております。

胡瓜の白だし漬けをポリポリと齧りながら、芥川龍之介が得意とする短編を読むと致しましょう。

本日・7月30日には3人の文学忌でもあります。

大正2年・7月30日、49歳で亡くなった伊藤佐千夫の「佐千夫忌」。

俳人・正岡子規亡きあと写生の教えを継承し、短歌雑誌「馬酔木(あしび)」の中心を担って数多くの俳句・短歌を世に伝え、「アララギ派」の立ち上げにも力を注ぎ、その功績は言葉では言い尽くせぬかと思います。

昭和22年の7月30日は、幸田露伴(こうだろはん)の忌日となります。

『露伴忌』…または別号・蝸牛庵(かぎゅうあん)から『蝸牛忌』とも呼ばれております。

露伴は向島に居を構え「蝸牛庵」と自ら命名し、約10年ほど住んだと文献に記してあり、今では露伴公園として残っている聞きました。

旧来「露伴・漱石・鷗外」と並び称され、日本の近代文学を代表する作家のひとりとして、研究のし甲斐がある露伴でありましょう。

  

昭和40年、7月30日は耽美派と知られている谷崎潤一郎が79歳で亡くなった日であります。

声にして読むと、ちょっと言いにくい『谷崎忌・たにざきき』…もう少し作品のタイトルを盛り込んだ艶っぽい名を記した方が良かったのではなどと思ってしまうのは、わたくしだけでしょうか?

実を言いますと、わたくし思春期のころ…谷崎潤一郎の作品より、彼の私生活で起きた佐藤春夫との「細君譲渡事件」や、谷崎の女性スキャンダルの方に興味を持って行かれ、わたくしなりの谷崎・女系相関図を勝手にノートに書き込み、乙女ながら「おっちゃんのくせして、やるなぁ~」と、しきり感心をしたものでした。

よって…わたくしに谷崎文学を語る資格はないものと思っております。

闘病中であった亡き夫が申しておりました。

「あの谷崎潤一郎な、あれもここ(東京医科歯科大学病院)に入院してたんだぞ。腎臓が悪かったから、当然俺とおんなじ泌尿器科だろうなぁ~」

耽美派・谷崎潤一郎を「あれ」呼ばわりで誠に申し訳ございません。

因みに…谷崎潤一郎(分骨)と芥川龍之介の墓は東京・巣鴨の慈眼寺の墓所で背中合わせにして眠っているのでありますが…お互い・さぞかし落ち着かぬことでありましょうねぇ~

二十四節気の第12番目、7月に巡って来る「大暑」の初候に『桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)』を迎えます。

東京にも数は少ないですが毎年花を咲かせてくれる桐の木がございます。

中国の神話に登場する架空の鳥・鳳凰(ほうおう)は、この桐の梢にしか羽を休めないと言われております。

その神話を頭に於いて見上げれば、やはり得も言われぬ気高さが見えるような気も致します。

令和3年、7月30日を迎えておりますが…どうぞ鳳凰が舞い降りて、大きな羽で邪気を祓って頂きたいと願うばかりです。

 

『すこしづつよくなるやよう桐の花』

(すこしづつよくなるようきりのはな)

平井照敏(ひらいしょうびん)