小説家・太宰治の祥月命日は、雨が降る「桜桃忌(おうとうき)」となりました。

雨で増水すると人食い川(ひとくいがわ)となる玉川上水で遺体となって発見されたのが、1948年6月19日…奇しくも太宰治・39歳の誕生日でありました。

72年前のこの日も静かな雨が降っていたと各新聞に載っているのを読むことが出来ます。

6月13日に山崎富栄(やまざきとみえ)・28歳と入水自殺…13日を「太宰忌」、そして19日を「桜桃忌」として太宰治のファンたちが多摩にある墓石に集う日でもあります。

太宰作品を深く愛するファンの方たちは必ずや1度は訪れ、手を合わせたことでありましょう。

かく言うわたくしも若かりし乙女のころ、19日の「桜桃忌」に太宰治の文庫本を胸に訪ねたことがございます。

それは墓参りとは少し違う…聖地を訪れる気持ちにも似たワクワクとした面持ちであったことは否めません。

清らかな墓前を思い描いていた太宰治の墓…大勢の人がお参りに来ておりまして、何やら線香の香りとは違う煙がもうもうと立って、風になびく煙は、とにかく煙かったことを覚えております。

「ゴールデンバット」と言うタバコを愛飲していた太宰治の供養にと「ピース」のタバコが供えるのが習わしとなっていると、その時に初めて知りました。

  

「ザ・太宰治」の上下巻。上巻には太宰治と言えば、この横顔。

頬杖で何を思い、ぼんやりと遠くを見ているような眼差しのお馴染みの写真の表紙となっていますが、下巻にはしっかりとカメラ目線、それも歯を見せて笑っている珍しい写真が表紙を飾っています。

上巻には「人間失格・斜陽・ヴィヨンの妻・津軽」など、下巻には「走れメロス・グッドバイ・桜桃・富岳百景」など上下巻合わせて112編が収められています。

こちらは大活字版となっているので、目が見えにくくなっている・わたくし、大助かり!

  

松本・侑子・著『恋の蛍』を読み進めますと、今まで耳にし、目で追った太宰治と山崎富栄とは異なる姿が浮かび上がって参ります。

戦争未亡人で美容師であった山崎富栄…表紙の写真は18歳の富栄で父親の美容学校で日本髪のモデルになった1枚だそうです。

美容、結髪、洋裁に長けロシア語も習得していた才女であったとのこと…普段は洋装で過ごしていたそうですが、和服がとても似合っています。

28年の生涯となるとは…この時には思いもしなかったでしょうねぇ~

表題となった『恋の蛍』は「夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)」の第八巻・夏からの掲載…藤原長清(ふじわらながきよ)が詠んだ歌が収められております。

 

『天彦よ雲のまがきに言づてむ恋の蛍は燃えはてぬべし』

(あまひこよくものまがきにことづてむこいのほたるはもえはてぬべし)

東大を除籍となった太宰治ですが、東大仏文の先輩で翻訳家である豊島興志雄(よしお)氏が「二人は一緒に逝ったんだから同じ火葬場で骨にしてやりましょう」と言ったようですが、津島家(太宰治)側から反対され、太宰治は杉並・堀之内斎場へ、山崎富栄は田無の火葬場へと別れ別れになったとのこと。

太宰の妻・美知子は夫の心中の報を受けても取り乱すことなく、「太宰の遺体は、骨にするまで家に上げないでください」と、子どもたちへの配慮を優先したのでありましょう。

2度も3度も自殺未遂の騒動を起こし、最後の頃は見張りも付いていたと聞くと、気の休まることもなかったことと思います。

美味しそうな「さくらんぼ」がスーパーや八百屋さんに並ぶ季節でありますが、「桜桃忌」と呼ばれるのは太宰・最後の短編小説となった「桜桃」からの名(めい)となったようです。

『子どもより親が大事と思いたい』の冒頭から始まる短編「桜桃」…

『…大皿に盛られた桜桃をきわめてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子どもより親が大事』で終わります。

同じ文章を繰り返し、最後は体言止めで終わっていて、思春期であったわたくし…この先を理解出来ずにおりました。

この歳になっても…いえ、なったからこそ太宰治はさらに難解となったかも知れません。

あの青かった時代に読むからこそ、その滑稽なほどの青臭さが眩しかったのかと懐かしく思います。

まっ!桜桃の種をペッと吐き出してみましょうか。

それでも解ったような・解らぬような?

あぁ、美味しかった・でページを閉じ。

 

『またしても噓でありしか太宰の忌』

(またしてもうそでありしかだざいのき)

中村苑子(なかむらそのこ)