今年のクリスマスはホワイト・クリスマスならぬ「ブルー・クリスマス」クリスマスツリー

2014年、日本全国のツリーが青く輝いたのは、ノーベル賞受賞の青色LEDのおかげかと思います。

青で思い出しましたひらめき電球

あの…背番号3番・長嶋茂雄さんに聞いてみましょう!

「鯖(さば)」の字はどう言う字を書きますか?

長嶋さんはこう説明をしてくれました。

「魚へんに…ブルー!」3

本当のお話であります合格

だから、怖いぃ~汗

下の写真…まるでどこかの親分のように腕を組んでいるのが私の母親でございます。

親代々・東京産まれの東京育ち…故に、ちっとばかし伝法で曲がったことは大嫌い、気短で早とちり、人の面倒見はいいものの自分は人から口出しされると腹を立て、気風と啖呵とくればテキヤ顔負けの度胸の良さ…あれが男に産まれてりゃぁ、一代で財を成したものを…と親兄弟、親戚中から口を揃えて言われていたそうです。

「ホントの男に産まれてりゃ、こんな気楽になんぞしていられるかい。本物の男ってのは、そりゃ大変なもんだわさ。女のあっちなんぞは足元にも及ぶもんかい!お父さんをごらんな。ぐちぐち女々しいことは一切口にしないだろ?黙々・淡々・粛々、うちのお父さんはね、男っぷりも日本一!大した働き者なんだよ」y’s

母親はさらりと言っておりましたが、心底父親に惚れていたようです。

その働き者の父親は、仕事が終わったあとも実に小まめに働いていたようで?

盆暮れだろうが、ひな祭り・端午の節句だろうが、子どもの誕生日だろうが、それこそクリスマス・イヴだろうが、家にいた試しがありませんでした。

では、父親はいったいどこに行って働いていたのでしょうか。

昭和30年代の鶯谷・日暮里と言えば、キャバレー全盛の時代であります。

つまりは遊んでいた…私は母親がグチることを聞いたことがありませんでしたから、ずい分とのちになって知りました。

父親は春日八郎にチョィと似た面立ちをしておりましたから、玄人さんたちからはよくモテたそうです。

後になって、大腸がんになった父親を見舞ったとき、本人は嘆きながらもこう自慢をしておりました。

「こんなになっちゃってサ、俺も情けないわ。その昔、俺も銀座じゃサ、指揮者のカラヤンそっくりだって言われたもんだ」

どこのカラヤンだか、今となっては聞く術もありません。

そんな父親でしたから、私は父親と一緒にクリスマス・イヴを過ごしたことは一度もありません。

どこの父親も同じようなものだったのでしょう。

写真のように、こうしていつも女・子どもばかりのクリスマス会でした。

それでも夫婦が不仲になることもなく、深川の女たちは子どもを育てていたように思います。

そんなクリスマスでも子どもたちはそれなりに楽しんでいたのでしょう。

部屋には折り紙でこさえた飾り付けがなされています。

確か…みんなでワイワイ、鶏の水炊き鍋を囲んだ記憶があります。

ケーキもプレゼントもなかったけれど、それが当たり前でした。

母親も近所のおばちゃんたちは外国から入って来たクリスマスと言うお祭りを、何んとか下町の暮らしに取り入れて愉しんでいたのだと思います。

 

かっぽれ、かっぽれ…沖じゃ わしがこと鴎と云うがサ ヨーイヤサ 

   隅田川では ヤレコノコレワイサノサ ヨイトサッサ―』

 

このあと、私の母親はお得意の「住吉踊り・かっぽれ」を、おばちゃんや従姉たちの合いの手に合わせ踊って見せたことと思います。

下町・露地裏に住む子どもたちにも世間並みのクリスマスをと、大人たちがやり繰りをしてくれた…一枚の写真に集うあのおばちゃん、このおばちゃん、そして母親ももうおりません。

白黒ではありますが、母親が珍しく注した口紅がほんのりと紅かったことはおぼえています。

 

歌人・山崎放大(やまざきほうだい)の短歌「母の名は山崎けさのと申します…」を、私の母親の名を置き換え、使わせて頂きました。

 

『母の名は長谷川梅子と申します…日の暮方の今日の思いよ』