大型台風18号が関東上陸のニュースを聞き、入院している家人が私を気遣い「明日は無理して来なくていいから…」と、メールを送ってくれました
朝7時…テレビのニュースでは、すでに京葉線の運転見合わせのテロップが流れていました
追って東西線も東陽町~西船橋間・不通となってしまい、これでは無理も無理家でじっと大人しくいるほかありません
このふたつの電車は、高架や川の上を走りますので横風に弱く、ちょっとでも強い風が吹くと、安全を優先してすぐに運転見合わせとなってしまいます
玄関先に避難させておいた鉢植えのギボウシ強風にも負けず葉のいち枚も折れてはいませんで、安心しました
その葉と葉の間に、ちゃっかりと台風を避けていたのでしょうアオドウガネが顔を出し、外の様子を盛んに伺っています
「もう出て来ても大丈夫だよよくひとりで辛抱したね…私もちょっと心細かったけどね」
「お互い、ひとり身は淋しいもんですなぁ」
「お互いって…そうか、お宅はまだひとりなのかぁ」
「まだ…じゃなくて、もう先に女房に逝かれてしまったんですわ」
そうなんだ慰めの言葉もありませんでした
何んか…急に家人に会いたくなってきましたが、無理に出掛けてこちらに何かあって、あちらをひとりにさせるわけにはいきません
何しろ・・・膀胱がないんですから
家人の病室に掛けられた9月11日・予定クリップです
水曜日は「手術の日」らしく、泌尿器科に限らず脳外科、消化器科、循環器科などの患者さんの手術が一斉に始まるようです
検査手術を含めたら、いったい幾つの手術が同時進行しているのか分かりません
午前11時30分…この日、手術を受けている患者さんの家族のICU説明ツァーが行われました
まさしくその現場に足を踏み入れるわけですが、入口で念入りの消毒をさせられます
ICUに入ったとたんもの凄い緊張感が押し寄せてきました
生命をつなぐ機会の電子音があちこちから聞こえてきます
ピッピッピッ
フッフッフップップッ
カーテンの向うでは必死で生きようとする息遣いが聞こえます
手術が無事終われば、ここに移ってこられる…何んとか頑張ってほしいという思いは、ほかの家族の方たちも私と同じ思いだったでしょう
家人は「662」のベッドに戻ってくること、前もって渡しておいた着替えが入っている場所、洗濯物を置いておく場所などを確認して、そっと音を立てぬように出て参りました
家人の手術時間は約8時間から9時間と、先生から前もって伺っておりましたから、少なくとも夕方遅く6時ごろまでには顔を見られるかと思っていました
それが…午後4時過ぎ、ディルーム・面会室で本を読んでいますと、担当の先生がわざわざいらして下さり、こう言われました
「ちょっと思わぬことで時間が掛かっています。膀胱と腸との癒着がひどく、剥がしてからの摘出となりますが、もう少し…あと5時間、6時間もしかしたらそれ以上掛かってしまうかも知れません。しかし、ご主人の容体は安定していますし、コツコツ進められていますから、ご安心下さい」
「ハァ…あと6時間先生、コツコツって積み立て貯金じゃないんですから、スパってわけにいかないんですか」
大体…担当の先生がのんびりと白衣を着たままで、なんでこんなところにいるんですかと、私は疑問を目に込め、先生の瞳に訴えました
先生は、午前中に検査手術を済ませ、家人の手術経過を聞き、心配しているであろうあの・か弱そうな奥さんに、まずは時間が延びることを報告し、何も心配することはありませんと報告してから、家人の摘出手術に臨もう!…こう思っていました…と、その瞳で疑問を返してくれました
「お疲れのところ、わざわざお越し下さいまして申し訳ありませんでした」
先生は白衣をひるがえし、廊下を去って行きました
午後8時を過ぎますと、病棟の面会室は電気を消され閉められてしまいます
行き場所を失った私は、本を抱えウロウロ
そうであった…午後8時からは手術室の隣・家族休息室が解放されることを言われていたのを思い出しました
ナースステーションに断りを入れ、山田貴敏・作「Dr.コトー診療所」9冊の貸し出しを申し入れ、いざ休息室へ
何年か前に、テレビで放送されて、吉岡秀隆・主演でそこそこの視聴率を取っていた人気のドラマだったそうです
休息室には手術が終わる家族の方が4組いらして、備え付けのテレビを熱心に見ていました
ちょうどNHK「ためしてガッテン」で血尿だの、膀胱だのの泌尿器科の番組を取り上げているらしく、古今亭志の輔師匠司会の声が聞こえてきます
「今さら聞いてもねぇ、今その腎臓の手術してんだから」
それでも…見てしまうお気持ち、わたくしにはよく分かります
さて…Dr.コトーをあっと言う間に読み終わり、次のを探したら…ない
仕方がない…に行くか…ない
いきなりに突入して物語に入っていけるだろうか
まぁ…孤島が舞台であるし、そうそう登場人物が入れ替わり立ち代わりもせんだろうと思っていたら、これが大間違いのコンコンキチでして、連作短編集なもんですから、およそ1話完結…その度に本土から、東京から話しのネタを持った人物が出て参ります
なんでこんな凄腕を持った外科医が、南の果ての孤島にいるのか…肝心のところが見られなかったんですが、家人の手術は上手く進んでいるのでしょうか
時計を見れば午後10時半…最初の予定を変更した予定ではもう集中治療室に入っている時間です
ひとつ…もうひとつと手術は終わり、家族休息室にはとうとう私ひとりとなってしまいました
Dr.コトーは全25巻あるんだそうですが、11巻で尻切れトンボのまま読み終わってしまいました
娘が差し入れてくれた弁当も食べ終わり、もう何もすることがありません
「ダメなのかなぁ」
「心臓マッサージでもしてんのかなぁ」
「お腹にハサミでも置き忘れて、取り出しの手術をしてんのかなぁ」
ひとりで思うは縁起の悪いことばかりであります
広い休息室には私ひとりでありますから、ここは発想の転換をしましてストレッチでもしましょう
先ずは長椅子を隅に少し詰めまして、ラジオ体操第1で体を温め、鎌倉スポーツクラブで習ったジャズストレッチを始めました
徐々に体が温まって気持ちも落ち着いてきます
時計の針は11時45分を指しています
何度も吐いては出てくる深いため息であります
ガタン…ツゥーと微かではありますが、今までにない音が聞こえます
「長谷美さん、お待たせいたしました。無事に手術が終わりました。今処置がすべて終わりICUに移します。あと5分ほどしたらお呼びしますからね。癒着がひどくて本当の手術・摘出まで時間が掛かってしまいましたが、ご主人、よく頑張られました。大量の出血ではなかったんですが、貧血の数値が出てましたので、2500ccの輸血をしました。5袋ですね。しばらくはICUで様子を見ますが、落ち着き次第、病棟に移って頂きますからね、どうもお疲れさまでした」
その後ろを家人を乗せたストレッチャーが横切りました…チラッと見えるは家人のおでこ
あの…広すぎるおでこであります
呼ばれて入ったICU・662番のベッドには、間違いなく家人がおりました
壁際には、他の先生ふたりがへたり込んでいました
ベッドで横になっている家人の方が、むしろ顔色がいいような気がします
15時間立ちっぱなし・食事なし・トイレなしのぶっ続けの手術です
いち度、その手袋を取ってしまうと、最初からゴシゴシと消毒液で洗い直さなければいけないそうで、水は飲ませてもらっても、トイレはなし…おむつをして手術に臨むのだそうです
さすが泌尿器科の先生であります
家人は寒気で体を震わせております…きっと私の顔を見ることが出来た喜びで震えているのでしょう
「俺はね、コオロギじゃないんだよ今、何時?夜中の12時ぃ気を付けて帰んなさいよっケチんないでタクシー使いなさいよ」
すっかり麻酔が覚めてしまっている家人なんですが…なぜか、自分が虫になっちゃてると勘違いしている様子…
「先生、手術が終わったばかりなのに、なんであんなに元気なんですか」
「切ったのは下半身ですからねお元気でいいんじゃないでしょうか」
孤島でなくとも、名医はここ御茶ノ水にもいて下さいました
本当にありがとうございました