なぜ、自分の欲求を深く知ることが

画期的かというと、
この次元では、どんなに美しくても、

必ずキャラクターがあるからです。

 

(実のところ、今まだプロセス中ですが、別の次元でさえキャラクターがそのまま残るようです。)

自分が最高に透明な、美しい湖だとしてもです。

誰の湖も、透明度は同じです。

でも、色だけは、うっすらついています。

 

もしかすると、

うっすらどころではなく

ビビットについていると言えるかもしれません。

ところが、多くのスピリチュアリティの教えや崇高な考え方によって、どうも間違った理想像ができてしまって、それを目標にしてしまっています。

まったく無色透明になることがゴールだ

という風に勘違いし・・・


思い方、感じ方、何もかもが

まったく同一でなければならないと勘違いし・・・

だから、

あの人とは合わないなと思っちゃいけない、あの人とは考えが違うなどと思っちゃいけない、いつでもニコニコして幸せにしてなきゃいけない、いつでもイエーっていう喜びでいなきゃいけない、いつでも静けさでいなきゃいけない、誰に対しても慈悲の心でいなきゃいけない、個性なんてあっちゃいけない...

 

などと思うことになります。

そうでない場合は、

私は失敗してる、まだ美しくない

という判定にってしまいます。

自分が無色じゃないからです。

そして
「ああ、私はゴールにはまだまだほど遠い」
ガクン(笑)

 



こんな風にワンネスとか、一なる存在

などという言葉のイメージによって、

全員何もかもがまったく同じでなければならないという誤解が生まれます。

 

 

 


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でも実際には、
自分が今わかっている範囲ではですが、

私の中の事実はなのですが、

「本当にワンネスなのだけれど、

しっかり個性があり、けれど分離していない」

という、肉体的マインドの理屈みでは理解しがたい、感覚的事実があります。

言葉、言語のみは、どうしても理解できないものがここにあります。

 


だから、絵を描いたりして視覚的に

頭で理屈を知り、

 

頭を使って一緒に進みながら

自分の感覚を探りつつ、

 

「自分の心の中の事実」をつかんでいく

のは一つのスムーズな方法です。

 

本に書いてあることではなく

本当のところ事実は?事実は?事実は?

と.......。

 

こうして、最後には、

「自分の中にある事実が 真実だ」

ということが分かっていくんだなということです。

 

本よりも自分。

 

そして自分が分かると

本が本当に言わんとしていたことが分かる。

 

そうして私が体験したことは

「真理ってバカみたいに単純」

「当たり前すぎて考えたことなかった」

でした。

 

つまるところ、自分の本性は

最初から答えを知っているのでしょう。


自分の中の

本当の 本当の 本当の 本当は、真実だ。

 

 

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そういうことのための

受動的ではない積極的な誘導瞑想であれば、

これも本当に役に立つ方法だと思います。

待たない瞑想。

50メートル走するような瞑想。


瞑想って、実は本来は、

運動するより活発なものだと思いました。

50メートル走るどころではなく
次元を上がろうとする行為なのだから。


自分の中の真実を

探しに行く行為なのだから。

 

新しいところが見つかったら

すごく静かになって

 

でもその静かは静かではなくて

活気があり

 

またそこでいろいろ教えてくれるから

結局50メートル走のように

発見、発見、発見と続く。


さあ、今日はどこ行く?♫
と言いながら座る、楽しい旅。


見た目はまったく動いていないけれど
とんでもないところへジャンプして行ける、

無料の旅行のようなものです。

また話がそれすぎました。

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ですから
「全体」と「部分」という考え方も、

肉体的マインドが想像できるものとは違うようです。

そうなると、これまで「自分は間違ってる、失敗だ」と思っていたことの多くは、まったく間違っていなかったことが多い、ということになっていきます。

 

これまで、自分がぜーんぶ合ってたとしたら?

 

だから自分を本当に知らなければと思いました。

 

肉体としての自分から目をそらさずに。

 

 


積極的瞑想として、つまり、
目をつぶらずに思考をふんだんに使う瞑想として、

自分の欲求を少しずつ許可しながら

自分の深いキャラを探しに行くというのは、

「自分の湖の色」を知る

一つの画期的な方法でした。



お金であろうが、他人の幸せだろうが、
なぜそれを欲しがっているのか?を知るんです。



表面の欲求から許可していき、

じゃあ「ディープレベル1」が欲しかったのは
なぜ?

 

→ああ、だから私は

 「ディープ1」が欲しかったのか... 

 

 そして「ディープ2」が分かる

じゃあ「ディープ2」が欲しかったのはなぜ?


→ああ、だから私は

 「ディープ2」が欲しかったのか...

 

 そして「ディープ3」が分かる

こうして
「ディープレベル1」「ディープ2」

「ディープ3」「ディープ4」...と。


どんどん自分だけの、超個人的な欲求

深く深く知っていくと、
きっと、最終的には、

ああ 私はなんて美しいことを欲求してることか
となると思います。


超個人的な欲求かと思っていたら

全体のための欲求です。


愛、平安、慈悲、自由を欲求していると

わかるはずです。


そして、平安や愛などのニュアンスが

本で読んで想像していたのと違って

もっと能動的であることに気づくはずです。



最初は体感ではなく、思考のみでこう知ります。

私はなんて美しいことを欲求してることか。


「理屈からしたら、私は美しくないなんて

 言えなくなっちゃった」と。


心は納得しないでしょう。

でもこの時点で、実は、
『事実』がもうすでにひっくり返っています。

 

多くの人は、これを心では受け入れられずに

抵抗するようです。

 

でも、頭ではしっかり受け入れてしまっています。

 

もう事実になっています。

「私は美しくないからこそ改善していこう」

であった『私は美しくない』という事実から

「私は美しいという事実が否定できない」
である『私は美しい』という事実へと。



「事実」が変わる。

 

事実って事実なので、言い返せません。

自分の心が何を言おうとです。

最初から美しかったと

知ってしまったんです。

ああ、私は美しかったからこそ

こういう感情がわいてきたのか

ああ、私は美しかったからこそ

人々を見てこんなに悲しかったのか

ああ、私は美しかったからこそ

こんなに腹が立ったのか という風に
過去も全部ひっくり返ります。

勝手に。無努力に。

事実が変わってしまうと
過去がひっくり返るのは自動的です。

おそらく

過去の出来事の記憶が思い浮かんで、
「ああ、あれもそうだ これもそうだと」
思っていくだけ。 以上。

 

 

 

事実が先に起こりプロセスがない。

「自分は美しい」に立てば
改善プロセスは無し、ゼロ歩です。
「旅」と呼べる道は0mです。

 

ルパート・スパイラは

スピリチュアルの旅の最上の方法として

「パスレス パス」と言います。

道なんて無いということです。

 

道なんて無いということを知る

ということです。

 

(最上の方法というのは言い方がおかしく、どれも最上の方法なので、ここで最上と書いたのは私が伝えやすくするために用いた言い方です。ルパートもそういう言い方はしていません。)


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実際には、
自分の欲求に触れるのは抵抗があるようで、多くの方が、自分の欲求が覆われているようです。

これまでずっと、人のために生きてきたからです。

子供のため、家族のため。

 

他者が喜ぶように、親が喜ぶように。

 

他者が安全になるように。

 

いまさら「あなたは超個人的に何が欲しい?」と聞かれても、なかなか分からなくなっている様子を見ています。

 

実際に私自身も、これに直面した時に

大きな抵抗を味わいました。

 

「私の望みは悟ることです!」

「平安です」「愛です」

しか出てこなかった。

 

「これまでスピリチュアルをやってきたのだし

そんなの絶対にあり得ないわ!」

くらいに、物理的なことや色々なことを

鼻っから受け入れない自分がいました。

 

だからその過程では、

人のために悟ろうとしていた自分さえ

見つかりました。

蓋をされています。
ブロックされています。

だから、もしかすると、

なかなか分からないのはノーマルです。

 

だから「自分の欲求が分からない」

と気づいただけで、人生初の体験です。

大きな一歩です。

 

 

 

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自分の欲求、自分の才能を見つけるためのヒントや情報は、たくさんあります。

私はこれを占術で見つけるのですが、人は10個以上のエネルギーを身に着けていて、そこにも手掛かりがあります。


人は、個性、才能、欲求を

バラエティに持っているということです。

そして「欲求=才能」でもありす。

才能というのは面白いもので、自分ではそれを

ぜんぜんすごいと思っていないし、

自分だけ特別だとも

すごいとも思っていません。

だから才能ということになります。

努力が必要ないから、才能と言い
努力が必要だったら、才能とは呼びません。

 

だって、自分には簡単だから才能なんです。

そんなだから、

自分で自分をすごいと思うはずがありません。

 

ほとんどの場合

「こんなこと、誰にでもできるでしょ?」

と思っています。

 

それどころか

当たり前すぎて、考えたこともありません。

 

だから、たよりになるのは、

周囲の人からの声です。

きっと、ちゃんと聞いていないだけで

褒められているはずだからです。

 

 

 

努力が必要で身に着けたものだったものだとしたら、後付けの、人からもらったもの、人をまねしたものです。

 

だからそれは単に

「前よりはできるようになったもの」

でしかありません。

でも、自分ではないものを成長させようとするのだから、疲れるでしょう。楽しくないでしょう。

「ああまだできてない」
と悔やんでばかりでしょう。

自分らしくないことをしてるからです。

自分の本性で生きていないからです。

鳥が猿になろうとしているようなものです。

鳥なら、鳥らしく、空をどこまで気持ちよく

飛べるかを学んだ方が楽しい。

 

「鳥が美しいのは鳥らしいから」です。

 

空を飛ぶ姿も、声も美しい。

ただそれだけで、

私たちにたくさん教えてくれています。

その飛んでいる姿のあなたの美しさを見て、他者は魅了され、憧れ、あなたのように生き生きしたいと思うでしょう。

そのあなたに憧れている相手が

猿であることもあるかもしれません。

でもあなたが自分の美しさを知っていれば
「ああ あなたは美しい猿ね」
と、他者の猿であるままの質の美しさ

を見ることができます。

あなたも私のように鳥になりなさい
なんて思いません。

「あなたは猿のままの方がきっと楽しいよ!」
と言い、

猿の美しさを褒めたたえてあげられるでしょう。

なぜなら、自分の鳥らしさ

という美しさを知っているから。

 

 

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私はこれが
無条件の愛の一つだと思うのです。

他者をそう美しいと見ること、
他者の湖の美しさだけを見るこが。

とても積極的な無条件の愛だなと。

 

パワフルで、本当にミラクルを起こせて

現実が変わる。

だから、もし自分の欲求が分かるようになったら、他者の欲求も見れるようになってほしいというのが私の願いでもあり、私の楽しみです。

「相手が望もうと望むまいと、相手を自動的に高次のレベルに置いてしまい、それにより相手は引き上げられる」

からで、そんなことがみんなできるようになったら、すごいと思うのです。

それに、そう見れるようになれば、

「自分は美しい湖たちに囲まれて生きている」

ということでもあります。

 

今、事実的に。

こうして、あなたが、自分の好きな自分の現実にします。

 

もう「現実を創る」のでさえなく

自動的に事実にしている状態があります。


そしてそうなれば

きっと感じます。

「ああ、私の湖と誰かの湖は、実は区切られていなかった、つながってたのか」

「世界中の人々、一人一人と、湖がつながってた」
 

「でも個性が残るんだな」

 

と。


またワークショップをやることになりました。

内容は同じかもしれませんし、
違うかもしれません。

でもテーマは
「欲求」「本性」に関することです。

一度ワークショップをやらせていただいて、みなさんがどこの抵抗で引っかかるかも見せていただいたように思います。私の発し方についても、たくさん学ばせていただきました。

前回よりどのくらい「上手に」「的確に」(笑)できるか分かりませんが、伝えたいことがより明確に力強くもなりました。

よろしければご参加ください。

日程等が決まりましたら
またここでお知らせさせていただきます。

 

 

また、これら書いた内容は

単に私が体験しているものの内容です。

単に私の好きな方法です。

 

どの方の体験も教えも

否定しようとするものではなく、

すべての人は、間違った道にいることはできません。

 

ただ、もっと行きたい道に出会ったら行くだけです。

 

 

 

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シリウス6ex 齋藤美枝
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