『受け継いでいるものに対する権利』奇跡講座
『受け継いでいるものに対する権利』The inheritance of the Kingdom is the right of God's Son, given him in his creation.神の国から受け継いでいるものというのは、創造されたときに神の息子/娘に授けられている神の息子/娘の権利である。「As above, so bellow 」「上の通りに、下もそうなる」これがいい訳かどうかは分かりませんが、上にあるものは下にもあります。高次元にあるものは低次元にあります。「向こう側」にも法があります。神の国にも法があります。だからここに法がある。ここにあるものは向こう側にもあり、向こう側にあるから、ここにある。ここに医者がいるなら、向こう側にも癒しのチームがいるということ。ここに弁護士がいるなら向こう側にも法を守る者がいるということ。ここに先生がいるなら向こう側にもより高度に発達した導き手がいるということ。向こう側が先で、それがここ、地球、第一の天では、ミラーされます。🔹 🔹 🔹だからコースでは『権利』という言葉が出てくるのでしょう。向こうに『法』があるから。単に、ジーザスが強い言葉を使いたくてそのワードをチョイスしただけでなく、「事実として法で定められている権利」として、法として、提示してあるように思います。そして向こう側では、言ってみれば法の遵守は周波数によりなされている。こっち側と向こう側の法の違いは、向こう側の法は、「自由意志により、なんでも好きなことができる。ただし、他の者を傷つけてはならない。」だとも聞きました。でもこっち(3D)では、人を傷つけることができます。こっちでも魂を傷つけることはできませんが、肉体や肉体だと思っている人を傷つけることは可能です。私はこれまで、向こう側の話をたくさん聞いてきました。こっち側がどれだけ本来のルールを超えて予想外の状況にまでなってしまったかも聞いてきました。本来は、もっとクリエイティブで美しいゲームの場だったのにと。そのせいでこっち側のものはどれも曲げられていて法も、医療も、先生も......。こっち側のものはミラーはミラーでも変になっています。そして現在、それらが反転しようとしている真っ只中です。それでも今も、法は絶対的に有効です。法は隠されているわけではありません。無効にもなっていません。堂々と表面にあるのだけれど、「そんなのたいした話じゃないよ」という考えが主流になってしまったので大事じゃないと思い込んでいるだけです。それにより行使しない状態が生まれています。そして法を行使していないとしたらそれは法を行使しない自分の責任でもあります。だから、「神の国から受け継いでいるものというのは、創造されたときに神の息子/娘に授けられている神の息子/娘の権利である。」とコースにあるのは、とても素晴らしく、とても重要なことです。生まれ持って当然持っているものなら今できるということで、行使するだけです。その能力も力も、もともと持っているのだからなんの練習も訓練も必要としません。私は、ある時、生徒さんたちにテレパシーのトレーニングをしました。自分の能力を思い出すための一環です。自分の能力を思い出すこと=ただの人間じゃないと思い出すこと=自分を思い出すこと=神を思い出すことトレーニングというよりは、こうやって、こうやって、やってみてとやってもらいました。多くの人がその場でできて、みんなこんなことができた、分かったと、自分に驚いていました。そしてみんなに言いました。「私が言ったとおりにやったら すぐにできたってことは、 練習なんてしてない証拠でしょ? だとしたら、もともとできる力があった ってことの証拠でしょ? そうじゃなかったら 私が今言って、今すぐできるはずないよね?」もちろん、練習すればもっとテレパシーを使えるようになり、直感や存在とのコミュニケーションも明確になるということは確ですが、でも「本来当然持ってるもの」というのはすぐにできるということです。使っていないだけ使い方を忘れてるだけ使ってなかったからカイロが不活性化してるだけ。🔹 🔹 🔹テレパシーひとつとってみても、ただ使ったことがなく使い方を知らなかっただけなのなら、さっきのコースの一文はとても重要な話だと思います。そこに「権利」という言葉も付随しているのだから法的にも絶対に守られているほどの権利です。私たちの権利なのだから、いい子でも悪い子でもコースを真面目に読んでいない子でも関係なく、一切何も知らない子でも関係ありません。時間も練習もいりません。🔹 🔹 🔹神はパーフェクトハピネスしか私たちに望んでいません。嫌いな者を好きになれとは言ってません。大丈夫じゃないのに大丈夫だと思えとは言っていません。大丈夫じゃないものは大丈夫じゃありません。それはパーフェクトハピネスではありません。すべて愛せというのは、すべてを大丈夫になれと言ってるのとも違います。勘弁ならないものを勘弁するとしたら愛じゃありません。だってその勘弁ならないものがさらに他を傷つけるのを勘弁して許可するのは愛でしょうか。それは私は許可できません。私がそれは許可しないと言うのは、私の自由です。そんなことが起これない世界が好きだと言うのも私の自由です。私の言い分が守られるか守られないかは私の責任ではありません。それでも、勘弁しないまま愛することができます。ダークをダークのままにしておき、手を引き、愛を思い出してほしいと願う愛を知りました。ひどいダークも見てきたおかげは大きかったです。私はコースを離れていた時「ノー」と言う機会の多さと「ノー」と言う愛についての大きさと大切さと難しさに直面し、コースの理解の間違いにたくさん気づきました。おかげで今は、コースがどれだけ批判的で、ストレートかに目が向き、新たな実践の仕方が生まれています。コースは多次元的に対応できるものでしたし、大規模でした。🔹 🔹 🔹自分の良きものや能力を隠させ簡単にはできないと思わせ使わせないようにさせている多くの策は、向こう側にあるものがこっちにもミラーされている法を利用し、展開してしまっています。それを自分で自分にしてると言うこともできるしそれをも超えたおかしなことということもできます。でもどっちでも対応は同じです。私たちの気づかぬ間の同意・契約により多くがなされています。その同意は、地球だけでなく多層的に展開しています。それが人生に展開しています。すべて法に基づいています。でも私たちも法を知り、行使します。当然持ってる権利を主張します。同意や契約の破棄、自分の当然の権利の主張、神から受け継いでいるものの権利の行使。戦いもいりません。神から受け継いでいるものは、地球だけでなく、全層に渡って展開します。何にも勝る力である愛、神に愛されていること、神に全面的にサポートされていること神の娘であること自分が神であることこの事実と権利の行使はとても壮大です。私たちは壮大です。とてもとても愛されています。それは法によっても守られています。