時間の逆転の日
目の前に現れたものは
現れた瞬間に時間を逆転していった。
現れたものに未来はなくなった。
「私の目の前に現れてしまえば
私から先の未来というのが続くことはできない」
「私が“過去を止める今”という
時間上の点だ」
と思った。
現れたものにどんな恐れや罪がついていようと
それを思う暇もなく、
過去から引きずってきた罪の意識や
そこから発生する恐れがあったとしても
それは続きようがなく、
現れるごとに時間は巻き戻り
それらは自分に触れも現れもしなかった。
それが一日中つづいた。
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ブロックがない日
次の日、肉体がするブロックの役目を無視することができた。
わたしが世界になったような気分だった。
良きも悪きもぜんぶ
わたしの中に浮かばせることができた。
それには
ブロックをしない大きな勇気が必要だった。
「入ってきてしまう」から。
あんなにひどいもの、あんなに悪いものを自分のものとして「入れる」のは、無意識にはできなかった。
気づくと、入ってくるのを拒否しているので、意識して許可を出さなければならない。
拒否と許可を繰り返す一日だった。
ミニ私と、ビックわたしを
一日中乗り換えているようだった。
その中で、問題や困難が自分に触れることができないのを体験していた。出来事は風といっしょだった。
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そして今日は、よく分からない。
逆転もブロック解除もどちらもない。
ただ「見なさい」だけがある。
何が起こっても「見なさい」。
風に参加しない。
“知っている”のは何もしないことが
愛だということ。
“知っている”のは知っていたけれど、その“知っている”はしょせん過去のもので、さらにもっと深く実行するのは大変だ。ものすごい衝動があるから。
これは行動のことではなく
心についてのものだから。
誰かを助けたいなら何もしない。
助けたいという思いすら手放す
心についてのもの。
だから何かを"する"よりもずっと難しい。
モノや言葉や成果を与える方が
よっぽど簡単だと思う。
そしてこんな努力をしていても
誰にも気づかれないし、知られることもない。
それどころか、非難されるという考えが浮かぶ。“行動として”、目に見える形で普通すべきことをしないからだ。そして実際に非難されているかもしれないけれど続ける。
それでも「見なさい」と言うから。
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その中、耐えきれなくなったり、何をどうしたらいいかと頭が大混乱になったりすると、助けがある。
みんなとMr.ノーバディの映画を観る機会もそう。
私は量子赦しの本を訳し、デイビッドの解説を聞いた。すごいプレゼントだった。その上で見ることになり、私は何時間もコメントした。この映画を何度見ているか分からないけれど、その時が今までで一番発見と理解の豊富な回になった。時間の逆転は、この映画からのものとも言える。
みんなも、うなずいたり、笑ったり、頭と心に大混乱が起こったりだった。それをみんなで嬉しいこととして捉えることもでき、自我のパニックと、それぞれが同じく感じている「わたし」のとんでもない希望が共存した。『真実』の『し』の字を食べ始めたばかりの方でさえそれを体験するのだから、奇跡でしかない。そして時間が関係ないということでもある。その様子を見せていただくというのは、どれだけの事実感か。時間も、一般的に言う努力も、全く関係ないということの証拠。
他の動画も、読んだものも、友達からの言葉もそう。
何度不安になっても、私がルートに乗っていることと、安心して進めばよいことを思わせてくれるメッセージに出会う。
「見なさい」とそのメッセージしかない。
すごく嬉しくて、すごくハード🥰