


「あら、いらっしゃい」
繁華街から少し奥に入った路地の片隅にある古く重たい扉を開けると
相変わらず優しい笑顔でママが迎えてくれた
「良かった。
お客さん来なくて退屈で死にそうだったのよ」
カウンターに座った私の前に温かいおしぼりを出しながら悪戯っ子のよう表情をみせた
普段だとこの時間なら お客さんで賑やかなはず
しとしとと降り続ける雨のせいなのだろうか
ふと珈琲の香りが漂ってきた
カウンターの中を見ると きちんとアルコールランプを使いサイフォンで珈琲が入れらていた
「内緒よ。スナックなのにコーナーの香りなんてね。
ほら、あまりに退屈で眠くなっちゃいそうだったから珈琲でも飲もうと思ってたとこだったのよ。」
少し照れた様な笑顔を見せると 何も言わず私にも珈琲出してくれた
シンプルな白いカップを両手で包こみ口をつけた
今日初めて口にするものがこの珈琲になる
温かい珈琲が胃袋の中に流し込まれるたび 身体の芯から温まってくるのを感じ
ふと 大きな溜め息が出た
朝から 散々な一日だった
いつもなら一発で起きられる目覚ましの音にも気が付かず寝坊をした
30分遅く目覚め 慌てふためきながら身支度と朝ごはんの用意をし
先月から一緒に暮らしている彼を起こしなが洗濯機を回す
気持ちに余裕なんて全くなかった
会社に遅刻する事は避けたかった
何度目かの声かけに彼は寝ぼけながら
「もう少し寝かせてくれよ、カオリ」
そう言って布団の中に再び潜り込もうとした
次の瞬間
彼は物凄い勢いで飛び起きると
「あ、いや、その
、ごめん…。」
と、青い顔をして謝ってきた
私は何も言えなくなり
そのまま無言で直ぐに家を後にした
『カオリ』
その言葉が 大きく重く私の全てにのし掛かっていた
「ねぇ、大丈夫?
」
カップを持ったまま思いにふける私にママが眉を寄せながら声をかけてきた
「あぁ、ごめんなさいママ。
朝から何も口にしていなくて…
ちょっと 疲れたか…な…」
そう答えた途端
涙が溢れ
大人になってから初めて声を出して泣いてしまった
もう止められない…
格好悪いけど
恥ずかしいけど
情けないけど
けど
けど…
流れ落ちる涙は色んな感情を運び
また涙を誘い続けた
「ねぇ、柏もち食べる?
貰い物で悪いけど、美味しいのよここのお店の柏もち」
センスの良い小皿に柏もちを2つ載せ渡してくれた
「私ね…
話した事なかったけど、子供がいるのよ。男の子。
五才になるの…
生きていればね。
あぁ、『子供がいた』だわねぇ。
どうしても、過去形では言えないのよ。」
唐突に身の上話を始めたママの視線は どこか遠くをさ迷っているようだった
「もうすぐ二才の誕生日を迎えるって時にね…
旦那だった人が子供を連れ出して…
車に載せられて
チャイルドシートなんか付けちゃいなかったのよ…あいつ…
でね、いいふりしてスピード出して事故ってね。
私が会った時は
もう冷たくなっててね…
あいつだけが助かった。」
冷たく硬い表情のまま ママの頬に涙が落ちていった
「約束していたの。
あの子とね。
大きな鯉のぼりを買うって。
子供の日には柏もちを勝って、一緒に食べようってね。
色々、恨んだよ。
私自身を含めて許せなくて、恨んで泣いたの。
今でもね、あいつの事はどうしても許せないけど…
今年の子供の日に夢を見たの。
あの子のね。
いなくなってから初めて、あの子の夢を見た。
ぷくぷくの小さな両手で私の頬を挟むようにして
私の顔を覗きこむのよね。
笑顔だった…
とびきり嬉しそうな笑顔だった…
いつの間にか
空には鯉のぼりがあがっていてね。
赤い色の大きな鯉のぼりと
青い色の小さな鯉のぼり。
泣きながら目が覚めた。」
ふっと力なく小さく笑うママの肩はとても小さく見えた
「ねぇ、その夢はあの子からのプレゼントだと思うのよ、私。
あの子をもう一度抱き締めたくて
何度も、あの子の元へ行こうと考えたのよ。
でも、出来なくてね…
私がこの世からいなくなっちゃったら、あの子がこの世で生きてたって事が忘れ去られてしまうって思うとね
やっぱり出来なかった…
機械のように身体を動かし一日一日を過ごして
心だけ、小さく小さく縮こまって
痛みに耐えてた。
けどね
悲しみは消えないけど、痛みは少しずつ和らいで
ちょっとは空を見上げれる様になったのよ。
あの子を心で抱きしめながら
生きて行く術を見つけたような気がしてね…
一日過ぎちゃったけど、柏もちも買って
あの子の写真抱きながら食べたの。
そんな私を
きっと褒めてくれたんじゃないかなって思うの。
その夢はね、ずっと一緒だよって、あの子が見せてくれた
素敵なプレゼントだと思うわ。
私の中で止まったままの時間も少しずつ動き始めた感じだわ。
あなたも…
きっと大丈夫。
生きているんだもの。
今辛い事があっても
もう駄目だって思っても
いつかは思い出になるからね。
その時に笑顔でいれる様に今日を生きて行けばいいと思う。」
そう言い終えてママは とびきりの笑顔を私にくれた
そうかもしれない…
『カオリ』
彼が私の前にお付き合いしていた女性
三年お付き合いして婚約までしたのに
彼ではない人と結婚してしまった人
それなのに
まだ彼の心の中に住み続けている事を知って かなりな衝撃に打ちのめされた私
同じ様に彼もまた打ちのめされたような表情をしていた
何に打ちのめされたというのか…
『カオリ』ではなく私だったという「現実」に打ちのめされた?
悪い事ばかり
次から次へと浮かんでくる
でも…
『カオリ』と過ごした年月には 今の私には敵わないけど
これから私と彼
2人で共に生きて行けば越えられるかもしれない
近くて遠い未来に笑いながら今日の事を2人で話せる日がくるかもしれない…
一緒に住む事を決めた夜
彼が私に言ってくれた言葉が心にゆっくりと広がってゆく
「君とこれから沢山の思い出を作って行きたいと思う。
大切に大切に過ごしながら
これからもずっと毎日を暮らして行きたいんだ。
僕は君を信じて
君は僕を信じて生きて行けるよう
僕は努力する。
だから 来年の五月晴れの空の下で
同じ名字になった二人でこのリラの花を見たい
僕はそれを心から願ってる』
そうだね
笑顔で話せる日が来る事を私も願う…
重たい扉の開く音がした
「ママ、遅くなっちゃったよぉ。」
3人連れのお客が店に入ってきた
私は小声でママに会計をしてもらうよう頼んだが
「あら、また今度よろしく。」
そう言って
優しく微笑んだ
家に帰ろう
2人の家に…
笑顔で今日という「思い出」を二人で語り合うために
という 妄想でした!!