天地に力の主軸が移行したことで、
今まで人間が力を持っていたことによるあらゆる不自然さ、
ゆがみ、いびつさ、醜さが目につくようになり、
そして気付けるようになり、
私たちの心のあり方も、天地に動かされます。
今までの人間は、個人個人が、その力を持っていました。
それは儀式によって天地から奪った力だからであります。
本来は天地が持つそのものの力を、
人間は儀式を使い、精霊をその媒介とし、
力の主導権を人間が持つことを可能としました。
初めは、神官や権力者、そこに集うものたちで得ていた主導権は、
どんどんとその規模を広げていき、
日本の土地全体を、変質させてしまいました。
高波動と化した日本の土地は、
そこに乗るもの全てに、神の領域の主導権を与えてしまいます。
人間の意思が神の意思と同等なり、
あらゆる意識が物質を動かし、
思った通りの出来事が動きます。
次元が高まり、時間を飛び越え、予見と予測が日常化します。
私たち人間は、日本人としてでなく、八百万の神として君臨します。
個人個人が神の領域に住む神となり、
しらずしらずのうちに、その思念のままにあります。
私たちの意思、思念は、強いものほど、効力を発します。
人間が天地から奪った力は全て、思念の強さに置き換わり、
それを制したものが、上位の思念となり、
多くのものを従えることができます。
そしてそれは、国として多くの儀式を重ねたもの、
長く続く宗教として多くの儀式を重ねたもの、
もしくは、強烈なエネルギー源を得た儀式を重ねたもの、
そういった、強い儀式を制したものに、その力は乗り、
その思念が勝り、多くの意識がそれにのまれます。
特に、太陽の男は、儀式自体が始まった時に作られた、
創始者としての権化であります。
男という性だけで太陽は常にそこに力を授け、
女という性の思念を上回ることができるのです。
こうして、人間が力の主軸であった時、
その人間の中で思念の強さとその儀式の効果によって、
私たちには力の階級ができていました。
ですが、思念と儀式の強さは、目に見えるものではありません。
力のあらわれは、あらゆるもので顕在化します。
簡単なものなら性別や肩書きや年齢、年収やお金で見ることができます。
そして思念が優位になることから、
多くの人を従えるカリスマ性として見えることがあります。
この社会は力があるものが作り上げた、
力のあるものが上位になれるように作られたものであります。
そこになんらかの差別、おとしめるものがあるなら、
それは下位とされた力のないものとしてあり、
そこに何らかの優遇や引き上げがあるなら、
それは上位のものとして力のあるものとして認められたこととなります。
社会でどの位置にあるかで、
人間はその人に儀式的力と思念的力のあらわれを見ることができます。
人間に力の主導権があり、それが見える形になっていたこの社会。
この裏には、まるで現実的でないような、
儀式と思念の見えない力で作られたものでありました。
私たち人間は、生まれた瞬間から、
すこしでも上位に食い込もうと、あらゆるマウントが身についています。
初めましてでであう時、
自然とその人の下になってしまうこと、
もしくは、自然とその人の上として振る舞ってしまうこと、
これは自分の力と相手の力を無意識に比べ、
マウントがされることで常に動いていることであります。
仲の良いもの同士は、同じような力をもつ同志として組み込まれますが、
どちらかが力をつけて行った場合、その関係性は簡単に崩れます。
同じランクでないと、相手の思念に取り込まれそうになり、
そこで拒否感が生まれ、お互いに齟齬が生まれやすくなります。
最初から同士ではなく、差がもともとあるものとして付き合うならば、
そこまで関係性は損なわれません。
ですが、逆転されることを防ぐために、
上位のものは下位のものを常に封じるように動きます。
力の主導権が、人間それぞれにあり、
それぞれが力のマウントを取り合ってることで、
私たちの人間関係は常に張り合いのなかにあり、そこに疲弊がつきまといます。
そして私たちはそれを生かし、殺されながら、
この社会を生き抜いてきました。
歳をとれば取るほど、その処世術と上位であることを自分の誇りとし、
そこの立場に強く執着しています。
この状態から、人間の主導の力が抜かれ、高波動と神の領域が無効化されました。
思念と儀式の強さで、上位の思念で培っていた全てが、なくなりました。
今まで、多くの思念のピラミッドが、日本にはありました。
多くの上位者がおり、その下に多くの下位者がその思念を曲げられていました。
この全てが無効化されたことで、
上位と下位がなくなりました。
思念のマウントがされなくなったことで、
私たちが無意識にはかっていた、相手との力関係が、
まったくもって、フラットになったのです。
どんな肩書きでも、年齢の差があっても、
経歴の高さや多くの人を従えた人でも、
ひとりの若者がそこに対峙した時、
自分の思念を曲げることなく伝えることができます。
思念のマウントがなくなった今、そこに強制力もなく、
今まで場所取り合戦のようにあった集合意識も、
個人の意識が立つようになりバラバラになります。
人間が主導の力を失ったことで、
人間はもう力比べができなくなりました。
みんな同じ位置にある、ただの人間となりました。
そして、天地に主導の力が戻ったことで、
人間は平等に、だれしもが、そのまま天地にひざまづくこととなります。
。。。
今、この時、
すでに思念と儀式の上下関係が失われいることに、いち早く気づくこと。
特に、太陽の男に付き従うことでその立場を得ていた巫女は、
他の女を下にすることで男に生贄として差し出すことで、
太陽の男のような力を得ることができていました。
何をしなくともと太陽の力が流れ込んでくる男と違い、
女は上の立場に縋り付くことに必死となります。
女の方が、マウント合戦が激しく、そして、犠牲となりやすくあります。
特に、スピ界はそれが顕著に現れ、
上のリーダータイプは絶対に、下のものに自分を触れさせません。
力の弱いものを常に従えることで自己の上位を保ち、
そして、下位のものたちの特性を、自分の思念で踏みにじります。
今、人間としてフラットに並列なものとしてある今。
私たち人間は、いかに素早く、
力の移った天地に自分を預けるか、その動きが加速化していきます。
ですが、力の上位にあったものは、それに気づかず、
自分の力の順位を下げることをよしとしません。
いまだ、下のものを下に扱い、そこにならうべきがあるのにならわず、
天地の力を、あなどっています。
フラットな人間であることを拒否し、
力が抜けたことの本当の意味を理解しようとはしません。
本当のわたし、をとことん大事にしてきて、
わたしの気持ちをいつでも優先、
すべては自分次第。と、自分だけの世界観を構築してきましたが、
天地に主軸が移った今、その自己自由を失ったことに、呆然とすることでしょう。
『これからは、天地のルールが優先されます。
人間はそれに従います。』
これを、人間の不自由さと感じるなら、
それはおごった考え方となります。
醜悪な自己都合マウント巫女であるままであります。
まったくもって美しくありません。
自己の創造と基軸として、それを自分のアイデンティティとして
自分を神として生きてきたならば、
天地のルールがそれを凌駕するくらい素晴らしいものであることは、
天地に関わるものならば、すぐにでもわかることでしょう。
彼らは人間を遥かに超えた、圧倒的な流れであります。
彼らにひざまづくことが、自分自身への侮辱として捉えるならば、
早くその巫女マウントの世界から、抜け出ないといけません。
以前は下位のものとして下に見てたものから、
天地に組み込まれる流れは生まれます。
そして、巫女としていたものたちは、
圧倒的なオールドとなり、取り残されることでしょう。
今は下位であればあったほど、
我に帰ることが容易いのです。
。。。。
。。。。
・あたらしい世界の始まり。
日本の波動落ちから、能力の喪失、
元の人間に戻るためのプロセス。
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