こんにちわ
お米がなかなか安くなりませんね。
先日、買い物に出かけたら、たまたま備蓄米がありましたベルクに。
その時はもうあと7~8袋ぐらい残っていましたが、しばらくして
またみてみたらあと1袋しかありませんでした。
値段は1990円でした。
運がよく買え家に帰って、炊いてみましたが美味しかったです。
また一週間後に行ってみたが、もう備蓄米はありませんでした。
4000円前後の米しか売っていません。
米も高いがスーパーで売っている物、みんな値上がりしてほんとに
いつになったらこの物価高、収まるのでしょう。
異常な物価高に消費税、そして異常な夏の暑さ
この国の政治家は何もしてくれないし、ほんとにやり切れません。
★王政復古の大号令の失敗
通説 王政復古の大号令が発せられ、明治維新が成立
歴史の真相 政権返上をする慶喜に対抗するため、幼い天皇を
人質にして行ったのが王政復古の大号令
★歴史に例をみない大犯罪
テロを主な手段とした、長州を中心とした討幕の動きは
禁門の変によって、長州が朝敵となり京都を追われた後も
沈静化することはありませんでした。
尊王攘夷を声高に叫ぶ薩長のテロリストたちを動かしていた
西郷隆盛、桂小五郎、大久保利通たちには、「尊王」などという
意識は微塵ももっていませんでした。
それなのに尊王攘夷、尊王攘夷と叫ぶテロリストたちを主導し
討幕運動に血道をあげ、最後には幕府を倒してしまうのです。
つまり「尊王攘夷」は、テロ活動のための単なる大義名分に
過ぎなかったのです。
薩長は討幕のため、天皇を利用し密勅を偽造しました。
偽の討幕の密勅です。
天皇の勅諚を偽造するという歴史的大罪を、薩長はやってのけた。
日本史に例を見ない犯罪です。
つまり大久保たちにとって、天皇という存在がいかに
軽いものであったか、、、ということです。
ところが慶喜側は、偽であろうと討幕の密勅が下るということを避け
大政奉還にでたのです。
これにより討幕の大義名分を消滅させたのです。
政権を返上した者を討つことなどできない、ことは言うまでもない。
★大号令とは
ここで薩長が発した大号令の内容をみてみましょう。
一、徳川慶喜の将軍職辞職を勅許する。
一、京都守護職、京都所司代を廃止する。
一、江戸幕府を廃止する。
一、摂政関白を廃止する。
一、新たに総裁、議定、参与の三職を設置する。
王政復古とはいっても、上級公家の排除と薩長主導の政権奪取の
宣言にほかなりません。
しかしこの王政復古の大号令は、みごとに失敗しました。
なぜなら慶喜の将軍辞職と江戸幕府を廃止することが
完全にできなかったからです。
その証拠に外交は、引き続き幕府が担当することを朝廷は命じました。
そのあと、将軍職辞職を朝廷に願い出たのは慶喜でした。
そしてこのまま終われば、公武合体が成立しそうな情勢となったのです。
そこで自分たちに不利なことを悟った大久保たちは、新たな画策をする。
それがクーデターです。
このクーデターは、まだ幼い天皇を人質として行われました。
薩長は密勅を偽造するわ、天皇を人質にとるわ、、、呆れるね
さすがテロリスト集団です。
12月8日の夜、公家の岩倉具視が自邸に薩摩、土佐、広島、尾張、福井の
5藩の代表を集め、王政復古を宣言し5藩の協力を求めた。
明けた翌日の12月9日、朝議を終えた摂政以下の上級公家が退出したのを
見計らって、5藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家衆の参内を阻止し
岩倉が参内、幼い明治天皇を臨席させ大号令を発したのです。
ところでこのクーデターは成功したのでしょうか。
このクーデターは見事に失敗しました。
学校教育では、王政復古の大号令が発せられ、明治維新が成立した、、、、という
流れになっています。
歴史では成功したとしないと都合が悪いので、そう教えています。
クーデター直後、明治天皇の御前において、クーデターによって設けられた
最初の三職会議が開かれました。
三職とはあの総裁、議定、参与のことでしたね。
そこで内閣総理大臣に当たる総裁には、有栖川宮が就任しました。
あの和宮の許婚でしたね。
★小御所会議
議定には、松平春嶽、山之内容堂そして参与は岩倉具視
この会議は慶應3年、12月9日に開かれました。
ところが事態は緊迫していて、京都にクーデター諸藩が軍を入れ
力で押し切ろうと、薩摩は西郷が藩主島津茂久と3000の兵を率いて入京
長州はクーデターで自ら勝手に朝敵処分を解除した挙句、1000名の
兵を京に入れました。
この中にあの凶暴で有名な奇兵隊が含まれていたのです。
安芸広島藩は300名、こうして5000という兵力が京に集結して
軍事クーデターに加わらない公武合体派に対し、強い圧力をかけたのです。
三職会議は、小御所会議とも呼ばれます。
●この会議の出席者は
16歳の明治天皇と皇族、公卿
元尾張藩主、徳川慶勝
前越前福井藩主、松平慶永(春嶽)
前土佐藩主、山内豊信(容堂)
薩摩藩主、島津茂久
安芸広島藩世子、麻野茂勲
それに薩摩藩士、大久保一蔵
土佐藩士、後藤象二郎
安芸広島藩士、辻将曹
たちも敷居際に陪席を許されています。
★薩長政権、対米英戦争へ突入
この会議の中で、山内容堂と岩倉具視が対立します。
山内は尊王佐幕派で、岩倉は薩長の頭に立つ討幕派です。
山内は、慶喜の出席を拒んだ会議であることを非難しました。
そして同時にまだ幼い天皇を担いだ、権力を私しようとする陰謀だと
断罪したのです。
この時、山内は「幼沖なる天子」と表現したとされる。
すると岩倉は「幼沖なる天子」とは何ごとかと反攻に出た。
そして「徳川慶喜が辞官納地を行って、誠意を見せることが先決である」という
主張を繰り返すばかり、、、、
徳川幕府に対して、辞官納地を求めるならば、山内容堂が主張するように
徳川慶喜を会議に参加させるのが筋です。
山内容堂は終始、徳川内府をと主張し、この会議は休憩に入りました。
大久保とともに陪席を許されていた薩摩の岩下左次右衛門という男が
この経緯を外にいる西郷に伝えた。
その時西郷は「刀一本あれば片が付く」と一言もらしたという。
この言葉が岩倉の耳に入り、岩倉はこれを浅野茂勲に伝える。
岩倉の決意を知った広島藩は、これを辻曹将が後藤象二郎に伝え
後藤は山内と松平春嶽に伝えたとされます。
山内が身の危険を感じた時点で、会議の決着がついたというべきでしょう。
会議の再開後、慶喜に官位と所領を没することを誰も反対せず決議しました。
この後、我が国の近代といわれる時代、政局が行き詰まるたびに
問答無用という暴力や武力恫喝が繰り返され、最終的に薩長政権は
対米英戦争へと突入していったのです。
知ってはいけない明治維新の真実著原田伊織