戦争を終わらせたい国家は、終戦工作に入ります。
第一総軍と第二総軍を全滅させなければ、戦争は終わらない。
そこで国家は、第一総軍を宮城事件で葬り、第二総軍を
原爆投下で全滅させてしまうのです。
しかし、原爆はアメリカが投下したものです。
ホントに国家の都合よく原爆が落ちてくれたものです。
残るは第一総軍のみ、そして815宮城事件が計画され
第一総軍を中心とする反乱は、偽装クーデターにより防ぎられ
鶴の一声が全国津々浦々に響き渡り、戦争は終結されます。
★二つの爆弾は14万人の生命を奪った
終戦直前に落とされた原子爆弾により、日本国民の14万人の生命が奪われた。
原爆が落とされたのは、広島と長崎でした。
英国の数学者で、政治思想家のバートランド ラッセルは
広島を「無茶苦茶な大量殺人」と呼んだ。
なぜ日本にこんな原爆が落とされたのか、疑念を抱く数人の博士が
広島と長崎への原爆投下に至った原因を、丹念に調査したが
これといった確証は見出せなかったという。
●広島
リトルボーイは、青空の中、24万5千人の人口をもつ市の北西部
地上450mで炸裂した。
瞬時に6万4千人の市民が、瞬時にして燃え上がった。
あるいは木っ端みじんにされた。
さらに4万6千人余は、中性子とガンマ線が無数に体を刺し抜き焼かれ
数分、数日、数週、数か月の間に死んで行った。
その閃光は160キロ先まで届いたという。
爆発の衝撃波により、瞬時に6820棟の建物がなぎ倒され
その音は、16キロかなたにも届いたという。
幅1・6キロの市の中心部が炎に包まれた。
そして数時間のうち10平方キロが焼かれたという。
爆心地の倒壊した建物から、なんとかはいずり出た人々は
戸外で酷いやけどを負って、幽霊のようにさまよっている
人々の中に混じった。
市の中心部を流れる三つの川は、火傷をいやそうと水に入った
人々の死体で埋まり、流れさえ止まった。
市の何箇所かでは、公園や広場に避難した人々が、周囲を火で囲まれ
瀕死の状態にあった。
爆撃の翌日、県知事は被害を受けた市民の復興と悪魔のような
アメリカを全滅させるため市民に戦う精神の高揚を呼びかけていた。
被災者は病院へ集められ、山をなす遺体はガソリンが撒かれ焼却された。
火は3日間にわたって燃え続けたという。
●長崎
アメリカは第二の爆弾、ファットボーイを日本に投下する準備を整えていた。
ファットボーイとは、その威力は核分裂性の極めて高いプルトニウムという
自然には存在しないワシントン州のコロンビアリバーの施設で人工的に
製造された物質です。
広島で使われたウラニウム爆弾の、ショットガン式のものより一層
大きな核分裂が発生する。
このファットボーイは、リトルボーイの3倍の爆発力があった。
ファットボーイは8月11日、日本に投下されるよう計画されていた。
しかしこの時、太平洋上では台風が発生し予定の11日から繰り上げて
9日の朝とすることに決定した。
当初の目的は長崎ではなく、17万の人口の小倉であった。
もしその朝、小倉に投下していたら、30万人が死亡していた。
なぜ小倉に投下しなかったのか、、、
小倉に接近すると、照準地点の兵器工場が目視出来なかった。
工場の煙突からの煙がそれを遮っていたのです。
そして3回目も照準地点に、それをとらえることができず
第二の標的、140キロ南の長崎へ向かったのです。
そして長崎の最も重要な軍需工場、三菱大砲製造所のある
浦上の谷の上に投下したのです。
三菱の工場では、魚雷や小火器を製造していたが、労働者は何も
聞こえなかった。
ローマカトリック教会である聖母マリア教会の会合に、集まっていた
人々は何も見ていなかった。
投下から4分後、爆弾は炸裂した。
その破壊は、広島よりもさらに完璧で死は即死であった。
ここでは3万9千人以上の男女、子供が死亡した。
こうして、広島長崎への原爆投下で大勢の人々が亡くなりました。
★天皇の責任はどこへ
原爆投下がされなければ、日本は戦争終結には至らなかったのか。
米国の関心事は、日本人の武士精神と天皇崇拝を根絶やしにすること。
天皇とそれを取り囲む人々は、戦争犯罪人としての処刑や投獄から
自らを守るため、天皇制度を何としてでも維持しなければならないとしていた。
米国も日本国民とそのリーダーである、天皇の協力抜きには日本の統治の
改革は不可能であると判断した。
それゆえ、天皇制維持を天皇を取り囲む人たちと同様に米国も必要とした。
だから戦後も、今も天皇制は続いています。
天皇の刑事責任は、何も問われませんでした。
それはアメリカが政治上の判断から、不起訴の方針を貫いたからです。
しかし連合国民の間には、今日でも天皇責任を忘れない人たちがいる。
1971年10月天皇は、イギリス、オランダを訪問し、ロンドン王立植物園で
「日本軍の捕虜となって、死んで行った人たちの死を犬死させてたまるか」
またアムステルダムで
「私の父はどこにいる、父を返せ」
といったプラカードを掲げた群衆によって、迎えられたことを
日本のテレビ、ニュース、新聞に報じられています。
朝日 71年10月7日 夕刊
毎日 71年10月8日 夕刊
読売 71年10月9日 夕刊
またドイツでも約250人が参加した、天皇訪問反対のデモが行われた。
読売 71年10月19日
● 政治上、道徳上の責任について美濃部達吉は次のように主張している。
「君主の無責任は、また徳義上の無責任を包括するものなり。
徳義上の無責任とは、君主の行為、不行為に対して批判し
その不当を非難することは、法律上の不法なることを意味す」
●横田喜三郎 東京大学教授 最高裁判長官
「天皇は戦争の準備にも開始にも、深く関与している。
自ら戦争を望んだのではないが、強いて反対することもなく
次々と軍部の政策に同意を与え、ついに戦争開始にも同意を与えた。
この天皇の同意によって、戦争の開始は正式に最終的に確定した。
そうしてみれば、法律的には天皇に第一次的な責任が
あると言わなくてはならない。
実質的に考えても、戦争の準備と開始に深く関係し結局それに
同意したのであるから、やはり責任を免れることはできない。
かりに主要な責任がないとしても、相当重大な責任を
負わなくてはならない。
日本人のうち天皇に責任があるというのなら、すべての日本人が
戦争に協力したのであるから、すべての日本人に責任があると
言わなくてはならないというものがある。
しかし戦争を行うかどうかについて、最後に正式な決定をする者は
決定の権力を有する者ひとり、天皇だけである。
大きな権力を有する者は、その権力の行使に対し当然大きな責任を
負わなくてはならない。
権力だけをもって、責任を負わないというのは正義に反する。」
米国は政治上の都合とか、何とか言ってるけど要するに自分たちの
都合がいいから天皇を免責し、天皇制を維持したかっただけです。
このお陰で日本は米国の植民地になり果てて、米国のいいように使われている。
★第二総軍全滅作戦とは
いくら戦争を終わらせるためとはいえ、徹底抗戦を叫ぶ第一総軍と第二総軍を
全滅させるにはどうしたらいいか、、、、
●第二総軍全滅
8月6日午前8時過ぎ、その日広島に原爆が落ちた。
それがあの前述の惨状です。
🌸広島県史
広島県司令部の要請により、中国地区司令部の強い要請により
中国地方総監および広島県知事は、8月3日から連日
義勇隊3万人、学徒隊1万5千人の出動を命令した。
8月のはじめ広島県に入った畑俊六は、知事と総監を説得し
第二総軍を動員し、8月3日から連日、義勇隊と学徒隊を出動させよと
命じ、そして迎えた8月6日のあの日、朝8時15分原爆が落ち
これらの人たちの多くが死んだというわけです。
これで第二総軍は全滅した。
畑は第二総軍の司令官です、その畑がなぜ知事と総監を説得し
第二総軍を動員し、義勇隊と学徒隊を出動せよと命じたのでしょう。
まるで原爆で死ぬように、命じたとか思われないこの行動に
疑惑を感じる。
それにこの原爆で、畑一人だけが死んでいないのです。
なぜなら畑だけが、この日の朝、総司令部に行っていないのです。
その時、畑はどこにいたかというと、
「山の中腹、松本俊一氏、父君の別荘におられる畑元帥」
と有末精三は書いている。
松本俊一とは、外務次官です。
その松本外務次官の父親の別荘に、畑はいた。
だから原爆にはあっておらず無事だった。
畑は松本外務次官とある取引をした。
そしてあの日の朝、8時ころ多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。
義勇隊も学徒隊もいた。
そこに原爆が落ちた。
原爆は第二総軍の人たちを殺し、義勇隊を殺し、学徒隊を殺した。
そして第二総軍は全滅した。
★アメリカと原子爆弾
アメリカが原子爆弾投下により、最も恐れたのは日本国民だった。
占領により日本を統治するにあたり、原子爆弾を投下して数十万人の
死者を出せば、その非難の声はアメリカに集中するのは必至。
現に広島県知事は、悪魔のアメリカと呼んだ。
しかし天皇陛下は、爆弾の悪口を一生語らず死んだ。
あれほどの広島の長崎の惨状をよそに、、、
●小森陽一 東京大学教授
「昭和天皇裕仁とその側近が、終戦=ポツダム宣言受諾をめぐって
原爆投下を誘引してまでも、引き延ばしを図った国体護持の
その国体観念それ自体が、満州をめぐる一連の大元帥裕仁の
判断と結合しながら形成されていった事実を、私たちはここで
思いおこしておかねばならない」
アメリカの原爆投下を誘引したのは、昭和天皇裕仁とその側近と
小森陽一は語っている。
原爆投下を誘引してまでも、、、、、
天皇は国体護持を確実にするために、原爆を誘引したのです。
都合のいい日に時間に、アメリカに原爆投下をしてもらい
それと引き換えが、国体護持、、、、だった。
天皇とそのとりまきたちは、天皇制護持、つまり国体護持を条件に
原爆投下を受け入れたから、原爆非難をできなかった。
だから死ぬまで原爆の悪口は言わなかった、、、、
そしていつしか、この長い戦争を終わらせるために原爆投下が
なされたということにして、アメリカが恐れた国民非難の声も
上がらず消え去った。
8月9日御前会議が開かれた。
これは天皇の強い要望だった。
●8月9日 木戸幸一日記
「11時50分より翌2時20分まで、御文庫付属室にて御前会議
開催せられ、皇室天皇統治大権の確認ののみを条件とし
ポツダム宣言受諾の旨決定す」
この午前会議は、ただポツダム宣言受諾をするために開かれた。
その受諾の条件は、ただ国体護持のみ
鶴の一声がやっとここで聞けた。
長い戦争の終わりです。
ちょうどこの日、長崎に原爆が落ちた。
被害は死者10万人、負傷者7万5千人、被災者13万8930人
焼失家屋1万8千620戸
その他の地方都市も、B29の爆撃で毎日のように死者が出ている。
この長崎の惨状を知りながら、天皇も大臣たちも一言もない。
広島、長崎で数十万人の人々を殺してまで守らなければ
ならない国体護持とはいったい何なのでしょう 、、、、