怨嗟の声 | 気になるニュースチェックします。

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戦争賛美で始めた戦争もいつかは終わらせなければならない。

国家が終戦工作を考え始めたころ、終戦直前に海外に271万9300人 

内地には207万9300人の陸軍兵士がいた。

 

●下村海南 終戦秘史より

 

第一総軍 東京 杉山 元 元帥

 第十一方面軍 仙台

 第十二方面軍 東京

 第十三方面軍 名古屋  計81万5500人

 

第二総軍 広島 畑俊六 元帥

 第十五方面軍 大阪

 第十六方面軍 福岡  計86万5800人

 

 小笠原兵団    15000人

 船舶関係     12万7000人

 飛行団      25万6000人

 

 

 この第一総軍と第二総軍の兵士たちは、徹底抗戦を叫ぶ。

 天皇や重臣たちが、いくら戦争を終わらせたくても

 この第一総軍と第二総軍の兵士たちがいる限り、とても

 終わらせるどころではなかった。

 

 15年戦争という長い戦争に、国民は疲れ果てていた。

 なにしろ1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年7月の

 ポツダム宣言受諾までの足かけ15年、実質13年11か月にもわたる

 長い長い戦争だったのだから、、、、

 

 ★天皇制を守るための終戦工作

 

 そこで戦争を終わらせるための終戦工作が成された。

 この終戦工作の中心的推進役となったのが、首相級の重臣たちと

 昭和天皇でした。

 

 彼らの考え方は、新米英、反共の色が濃く天皇制イデオロギーを

 無条件に奉じている点では、全員共通でした。

 重臣たちは、国体護持、すなわち天皇制支配機構を温存させるため

 戦争を終結させたいと考えたのです。

 国民を戦災から救うためになされたものではありません。

 

 ★反戦の声

 

 民衆の間には、反戦意識が潜在しており、しばしば投書、落書き

 死語などの形で顕在化しました。

 

 ●住吉胡之吉  東大生

 

 住吉は当時、東大の学生でした。

 航空研究所に動員中、たまたま帰宅した夜、空襲のため焼死しました。

 死に先立つ20日前の45年5月6日の日記に、次のように記しています。

 

 「灰塵の中から新たな日本を創りだすのだ。

  万世一系の皇統を云々する心、微塵もない。

  その皇統、国体の故に神勅あるが故に、現実を無視し人間性を蹂躙し

  社会の赴くべき開展を阻止せんとした軍部、

  自分はもうかかる封建的な人間性を無視したことを、抹殺したい。

  本当に感謝し、隣人を愛し、肉親と睦み皆が助け合いたい」

 

 ●小学校訓導 田中重寿 38年

 

  田中は理髪職人らに向かい

 「今度の事変は軍部の遺り過ぎである。

  正義云々と称しているが、日本の軍隊が他国へ攻め込んで

  それを正義というのは、変ではないか。」

 

 ●近藤政太郎 63歳 農民

 

 戦死者の葬儀の際

 「天皇陛下が一言、戦争を止めると言えば、戦死傷者もなくなるのだ。

  故に天皇陛下を恨みこそすれ、誰が天皇陛下バンザイを唱えて

  死ぬものがあろうか。」

 

 ●青砥 ミノ 福島県の農民

 

 「国家なんて虫の良いことばかりするものだ。

  足袋もなくて、働け働けと言われても仕方がない。

  そこに増税だなんだと、これでは百姓がやりきれない。

  これも戦争があるためだから、戦争なんて負けてもいいから

  早く止めてもらいたい」

 

 ●また41年平沼内相あてに次のような投書をした者があります。

 

 「天皇を廃し、共和国とせよ。

  支那事変を即亊打ち切れ。

  全国の御陵を潰し、耕作地とせよ。」

 

 「支那の国、取っても軍人や、一部の政商が得するだけだ。

  われらは日本が負けても構わん、

  とにかく早く平和になれ」

 

 こうした民衆の反戦意識は、戦局の悪化とともにますます

 強くなりまた広まっていきました。

 その怨嗟の声をお聞きください。

 

 ●政府や軍部の人間は、自分たちは掛け声ばかりしていて

  国民をこんなに死なせて、よくも平気でおられたもんだ。

  国民を人間と思っているのでしょうか。

  今度の戦争で、日本という国が情けも容赦もなく恐ろしい国だと

  いうことが初めてわかりました。

 

 ●天皇陛下はのんきに写真に写っているが、人の子供をこんなに死なせて

  大きな顔をしている。

 (太平洋戦争 家永三郎著)

 

 戦争賛美だなんだといっても、聖なる戦争だなんていっても

 殺し合いには変わりない。

 自分の子供、夫、を死なせて、上のような怨嗟の声が民衆の本音でしょう。

 

 日本が終戦に至るまでには、様々なことが起こっています。

 その一つが第一総軍と第二総軍をどうするか。

 そこで計画されたのが、この二つの軍を潰すことでした。

 そうしなければ、戦争を終わらせることができない。

 

★第二総軍の最期

 

 ●有末精三 終戦秘史 有末機関長の手記

 

 有末は、原爆投下の翌日、部下と理化学研究所の仁科芳雄博士とともに

 広島に視察に行っている。

 ここには第二総軍司令部があった。

 

 「私はすぐに降り立ったが、誰一人出迎えてもいない。

  飛行場の短く伸びた芝生は、一斉に一定方向たぶん東へ向かって

  なびいており、しかも一様に赤く真っ赤ではなく、焦げ茶色といったほうが

  当たっているように、焼けていたのに驚いた。

  2~3分たったころ、飛行場の片隅の防空壕から、這い上がってきたのは

  飛行場長と思われる一中佐。

  左半面顔中、大ぶくれに焼けていた。

  司令部は幸いに、建物は残っていたが窓ガラスはめちゃめちゃに壊れていた。

  その司令部の前庭に運び出された、六尺机の前に立った私は

  馬場英夫少将らの詳細にわたる報告を受けた。

  飛行場での印象と、生々しいやけどの飛行場長の数言

  20数万の広島市が、一言で尽くせば全滅といった驚くべき

  特殊爆弾の威力に驚いた」

 

 広島の第二総軍のほとんどの人たちは、原爆投下によって傷ついていた。

 広島の原爆で、第二総軍の数々の建物が壊滅し、多数の死傷者がでた。

 第二総軍の軍人たち、義勇隊、学徒隊の多くの人たちが死んだ。

 

 これにより第二総軍は壊滅した。

 西日本の反乱軍は、これにより鎮圧された。

 残るは第一総軍だけとなった。

 そして計画されたのが815宮城事件です。

 

 雲の上で進められた終戦工作、第一総軍と第二総軍の悲劇には

 疑惑が付きまとう。

 原爆を落としたのは、アメリカです。

 そのアメリカが都合よく、第二総軍の広島に原爆を落とした。

 そして都合よく第二総軍を壊滅させた。

 

 次はこの疑惑に迫って見ましょう。