最期の時 | 気になるニュースチェックします。

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★★★最期の時

 

★3つの群

 

 哈達河開拓団は難行軍のなかで、多数の落伍者を出しつつ自然に3つの

 軍を作っていた。

 ◎先頭集団

 

  【自分たちはハタカンの空襲で馬をやられなかったので、どんどん先へ

   行くことができた】

   と語った遠藤久義率いる北大営や東海地区の応召家族たち。

  納富善蔵の父の吉岡寅市とその家族、および畝傍区の馬車群

  貝沼団長夫人、深渡瀬正直、上野勝の妻キクエの一行は

 中央集団よりさらに1キロ前方を進出していた。

 

 ◎中央集団

 

 貝沼団長、衛籐通夫校長、本村辰二警察隊長を中心とする一群

 南郷開拓団も加えておよそ400名がここにいた。

 後尾集団の約1キロ前方にいた。

 

 ◎後尾集団

 

 笛田道雄率いる応召家族たち

 上野勝、高橋秀雄、福地医師もここにいた。

 女たちは落伍寸前の状態にあり、最後尾を気力だけで進めていた。

 

★哈達河開拓団の終焉

 

 笛田道雄たち最後尾をゆく一行が、麻山谷に到着したころから山の向こうの銃声は

 ますます激しさを増してきていた。

 歩兵30人くらいの分隊が、これから斬りこみになるかもしれぬと、軍靴を脱いで

 地下足袋に履き替えていた。

 

 兵隊たちは水筒の水で水筒、型通りの水さかづきを酌み交わし、分隊長が

 袋を女たちに渡した。

 その中には羊羹、キャラメル、アメ、乾パンなどが入っていた。

 

 子供たちは何日かぶりで歓声をあげ、女たちの顔にも微笑みが浮かんだ。

 この時、軍用道路で高橋秀雄が、開拓団のトラックを焼こうとしていた。

 敵の手に渡してはならないと、福地とトラックにガソリンをかけ火をつけた。

 炎が傲然と立ち上り、ものすごい光景が展開された。

 【知る人ぞ知る哈達河開拓団の最期は俺が燃やした】

 高橋秀雄はこう語ったが、哈達河開拓団の終焉を象徴する壮絶な光景だった。

 

 ★麻山谷

 

 そこからさらに前方1キロの山に囲まれた地点を麻山谷と呼ぶ

 そこは約600坪くらいの広さのゆるい傾斜地であった。

 そこにそこに団長を囲んで、中央集団の400人と馬車が集結していた。

 

 そこへ一人の兵隊が走ってきて、貝沼団長に伝えた。

 【ソビエトの戦車がすでに前方にいる。

   我が軍も応戦しているが、戦死者も多くこれ以上の前進は無理である。】

 

 人々の顔から血の気が引いた。

 昨夜、開拓団を追い抜いて撤退していった部隊の兵隊たちも後退してきた。

 【数十台のソ連戦車と遭遇して敗れた。

  その戦車が今ここに来る、国境からの戦車群も来る、もう袋のネズミだ。

  残された脱出口は裏山をぬいつつ麻山を大きく迂回して林口に向かう道しかない。

  部隊はその方向に行く】

 

 団長は後退してくる日本軍を捕まえては、安全地帯まで護衛を懇願するが

 すべて拒絶された。

 【戦闘力のある兵隊が後退し、戦う力のない開拓団はいったいどうなるのだろう。

  兵隊は何のために存在していたのだろうか。

  当時の私には理解できなかった】 納富

 

 絶望していたもののそれでもなお、団長は後方待機中の部隊をみつけて

 開拓団の護衛を頼むよう納富を伝令として出発させたが、ついに

 開拓団の保護は得られなかった。

 【我々の任務は開拓団の保護ではない。

  気の毒だがそのように伝えてくれ】

 隊長らしき人の言葉に残念でならないと納富は言う。

 

 団長も納富の報告を受けて悲痛な面持ちでうなづいた。

 その時この避難集団の最先端を行っていたはずの、遠藤久義、吉岡寅市の

 二人が山の斜面を駆け下りてきた。

 二人は団長の前に立つが、大きく見開かれた目と口元がけいれんし

 声にならなかった。

 

 二人は前方に突然敵の攻撃を受け、団員多数が戦死し四散して行方不明

 自分たちは、家族を処置して報告に戻った旨を伝えた。

 先頭集団には、遠藤久義、吉岡寅市、深渡瀬正直など6,7名の男子団員と

 婦女子60,70名がいた。

 彼らは中央集団から1キロ前方で攻撃をうけた。

 

 【ソ連軍は早くも私たちのいる道路を、前方の山から包囲するようにして

  一斉射撃してきました。

  胸は早鐘のように動悸をうっていました。

  激しい銃弾に包米の葉は破れ、幹は折れ、実は打ち落とされていく。】 上野菊枝

 

 自動小銃が草をなぎ倒して、青々と茂った包米畑は一面荒れ果てた。

 あちこちに悲痛な叫びと、断末魔のうめき声が聞こえる。

 このとき、深渡瀬正紀は両親と弟妹を失った。

 長男の正喜も日本刀で割腹、自決をした。

 

 この麻山で一家全滅かと思われていた深渡瀬一家だったが、この中の

 次男正紀10歳が生存していた。

 

 正紀は麻山の峠にさしかかるころ、馬車を下りて友達と3人で家族から

 50m先を歩いていた。

 その時、突然日本の兵隊が現れて、ソ連の戦車が来るから早く逃げろと

 言われ草原を夢中で駆け下りた。

 

 小さなナラの木に隠れると、そこにはおばあさんと男の子が隠れていた。

 友達はどうなったかわからない。

 山の上からソ連兵が手りゅう弾か何かを投げているのがみえた。

 

 おばあさんは短刀で子供の首を切り、自分も首を切って死んだ。

 正紀も首を切ったがうまく切れず、出血で眼がくらんでしまった。

 何時間か経過した後、気がつき包米畑を歩いていくと、母親の屍に出会い

 母は4男元1歳を背負い、胸や背中を撃たれていた。

 

 その近くに2女の静子6歳が、腸を吹き出して死んでいた。

 その近くに3女の三子3歳が倒れている。

 よく見ると眠っていた。

 三子を揺り起こして付近を見ると、包米の倒れた下に血に染まった父の屍があった。

 

 正紀は捨ててあった缶詰をひろって、三子と食べその夜は母の屍のそばで眠った。

 その正紀も翌日、再びソ連兵に襲撃されて、三子と離れ離れになってしまう。

 

 ★完全に包囲された

 

 遠藤久義の集団も銃砲弾の炸裂する中で、立往生を余儀なくされる。

 そして彼らは最期の時が来たことを知る。

 【私はもう夢中だった、合掌する妻を正面から撃った。

  続いて母に習って手を合わせている8歳の長男はじめ、3人の子供たちを

  次々と撃った】 遠藤

 

 そして最後の手段として処置が行われた。

 銃弾の飛び交う中での処置である、一人一人狙いを定めてというような形はとらなかった。

 そして同じ場所で、吉岡寅市の集団も遠藤たちと同じく、敵弾雨飛のなかで処置が行われた。

 飛弾はますます激しく、後方集団にも危険が迫っていた。

 

 二人はようやく戦場を抜け出し、斜面を転がり下りて中央集団の団長の前に立ったのだ。

 【私たちは今、来た道を残すのみで、完全に包囲されている】

 団長は今まで見せたことのない厳しい表情でそう言った。

 

 【前方にはソ連機械化部隊が砲門を開き、後方にはソ連戦車が迫っている。

  日本軍さえも敗走するこの状態の中で、脱出する道はほとんど断たれたと言っていい。

  このさえ、自分には二つの方法しか考えられぬ。

  その一つは、入植以来一家のように親しんできた人たちが、つらいことだが

  ばらばらになって脱出することである。

 もう一つの道は、生きるも死ぬも最後まで行動をともにすることである。

 いずれをとったらいいか、意見があったらっ聞かせてほしい】

 

 やがて嗚咽と慟哭が広がって、、、、、

 【私たちを殺してください】

 と女たちが声を上げた。

 

 そして男子団員からも自決という言葉が次々と発せられ、団員がそれまで

 身につけていた故郷の父母の写真、応召中の夫の写真、貴重品など

 軍関係の品も山と積まれて火がつけられた。

 

 ★最期の時

 

 あちこちで同じ部落の者同士が、円陣をつくり白ハチマキ、たすきをしめ

 沢の水で水さかづきを交わしていた。

 【この時まで冷静であったっ応召者の婦人たちは、夫の写真に頬ずりせんばかりに

   別れを惜しみながら、火の中に投じ燻る写真を見守り、流れる涙を拭きもせず

  泣き崩れる姿が私の心に強く残されている。

  自分も所持していた現金、時計、警察手帳などを全部焼き捨てた。】 本村辰二

 

 そしてこの時、貝沼団長の周りに集まっていた団員の中から、斬り込み隊結成の

 声が上がった。

 貝沼団長は斬り込み隊隊長に本村を要請し、納富善蔵らを自決完了まで

 この地の警備に当たらせることにし、本村らを出発させた後

 一同とともに東方を遙拝、万歳を三唱し手に持った拳銃で自らのこめかみを撃ち

 どうと倒れた。

 それは自決の作法を示すような死への先導に価する従容とした姿であったという。

 

 そして女たちも一同、団長の周りに集まり、お互いに別れの挨拶をかわしお礼を言った。

 【私はそれまで携行していた学校関係の重要書類と貴重品を焼き捨てた。

  馬車から取り出した毛布を敷いて一家3人その上に座った。

  今が最期と思えば、腹もすわり気も落ち着く。

  妻と顔を見合わせる、妻は寂しく笑って小さな声で幸福な15年でした。 

  私も悔いなき一生だったとつぶやいた。

  それが二人の最期の会話となった。

 妻が最期まで手放さずもっていた振袖を着せてもらって、大喜びの数え年7歳の

 真知子を膝の上に抱き上げると、私の耳に口を寄せて

 「あのね、おかあちゃんが良い所へ連れて行くって、、、そこには飛行機ないね、、、、」

  という。

 この三昼夜爆撃に防空頭巾の中で怯えていた、娘がいじらしくてしかたがない。

 私が本部詰めでそばにいてやれなかったので、敵機の来るたびに母親と二人で

 どんなに心細い思いをしていたことか。

 11日に私が妻子の馬車のそばに来たら、私の娘は私を離そうともしなかった。

 そして今日はお別れだ。

 父ちゃんも少し遅れるけどすぐ追いつくからね、、、、と私の銃で倒れた真知子

 そして妻も胸に一発受けながら、もう一発と叫んで倒れていった】

   (衛藤通夫  参議院証言速記録)

 

 時刻はすでに4時をまわっていた。

 中央集団の自決現場に近ずくにつれ、血なまぐさい臭いと強い火薬の臭いが鼻をつく。

 全員無言のまま現場を一巡した。

 

 一番高いところに貝沼団長の遺体があった。

 みなきりりとハチマキをしめており、覚悟の様子がうかがわれた。

 【血はふき取ってあったのか、団長の姿はきれいであった】

  と納富善蔵は語った。

 

 翌日13日、早朝現場を通りかかった西東安教育隊の里瀬勝も現場を目撃し

 【開拓団の人々が大勢集まって、休憩しているように見えたが、近づいてみると

  400人くらいの婦女子が自決をしていて驚いた。

 自分が見たかぎりでは、一人の女の人を除いては皆、うつ伏して死んでおり

 目隠しをした静かな死に顔で、覚悟の自決というか、いわゆる悶え死んだという

 顔ではなかった、皆眠ってでもいるように死んでいた】

 と語ってくれた。

 

 この自決現場から3日後、7人の子供たちが現地人に助け出された。