満州三大悲劇 | 気になるニュースチェックします。

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★★★満州三大悲劇

 

★さっさと開拓団を見捨てて逃げ出した関東軍  

 

 

 終戦のころまできましたが、関東軍に置き去りにされた満州移民のことを

 見てみたいと思います。

 国家は本当にあてにならぬものだということが、よくわかります。

 そして国家に騙されてはなりません。

 

 満蒙開拓団(満州開拓団)は、いわゆる関東軍の暴走による満州建国の延長で

 多くの日本国民が、国家に騙され満州地域に駆り出され、翻弄されたあげく

 悲劇の末路をたどった開拓団の人々のことです。

 

 

 1931年満州事変勃発、その翌年から第一次満蒙開拓団の移住が始まる。

 この計画は満蒙開拓の父、、、と言われた関東軍将校、東宮鉄男らを中心に練られた。

 そして結局、30万人の貧しい地域の日本人が送り出されている。

 

 関東軍の計画は、中国人を追い出し傀儡国家、満州国をソ連の攻撃から守る

 最前線に農耕兵士として配置するというもの。

 終戦直後、ソ連が満州に侵攻し関東軍は、満蒙開拓団を見捨ててさっさと逃げ出し

 日本に帰国、、、、、

 残された開拓団の8万人が自決を含め死亡しました。

 

 送り出すだけ送り出し、ソ連の国境の最前線に農耕兵士として配置し

 ソ連が侵攻してきたら、さっさと開拓団を見捨てて帰国した関東軍

 

 ★政府の考えた満蒙開拓団とは

 

 ◎満蒙開拓団のスローガン

   五族共和、王道楽土、、、、、これが当時の満州開拓のスローガン

   五族とは、、、、、、、大和(日本)民族、漢民族、満州民族、朝鮮民族、蒙古

   五族協和とは、、、、日本人をリーダーとして、5つの民族が仲良く暮らそうというもの。

   王道楽土とは、、、、日本の天皇制のもとに、新しいパラダイスを作ろうという意味。

 

  これが事実なら5つの民族は、平和で幸せ、、、、、、です。

  こういうのをスローガンとして、満蒙開拓団を送り出したのです。

  これに騙されたのが、開拓団として送り出された人々です。

  満州に行けば、広い広大な土地でみんな仲良く農業ができるんだ、、、、

 

 日本政府は、満州事変以降、本格的な満州の経営に乗り出すが、他国を支配するに

 最も必要なものは、より多くの日本人の存在であった。

 なにより中国人を支配するには、ある程度の日本人の数が必要不可欠という

 考えであった。

 

 満州は地下資源も豊富であるが、やはり農業が主である。

 そこで日本からの農民の移住が考えられた。

 昭和初期の日本の農村は、不況が続き次男、三男に分け与える農地も頭打ち

 農地不足が深刻になっていた。

 その農地が満州には無尽蔵にある、、、、、

 

 増え続ける人口、食糧事情も追いつかず、これらの問題を一挙に解決するため

 政府が考えだしたのが、満蒙開拓団というわけです。

 しかし開拓団の農地の大半は、現地中国人から強制的に収奪されたもの。

 現地中国人の恨みの上に成り立つものが開拓団政策でした。

 

 土地を奪われた中国人は、暴民となって開拓民を襲う。

 

 

 

 ★置き去りにされた満州移民 死の逃避行の始まり

 

 1945年8 月8日、ソ連は日本に対して宣戦布告

 8日の夜から9日未明にかけ、ソ連は150万の兵力をもって、東、西、北3方面から

 満州に侵入した。

 

 新京を目指して突進するソ連軍の前に、弱体化していた関東軍は各所で寸断され

 大混乱に陥った。

 太平洋戦線窮迫により、43年を境に、関東軍の現役師団は次々に南方に転用され

 その代わりに補充されたのは、編成、装備に劣る新設師団ばかりであった。

 

 1945 年6月の根こそぎ動員で、兵力だけは70万人に上ったが、10万人は

 銃さえ持てずろくに訓練も受けていないというありさまだった、、、、、

 そして持久戦にむけて、陣営をたてなおしている最中に、突然開戦となったのである。

 

 8月15日、日本は降伏

 18日、停戦命令が出された。

 こうしてソ連は、満州全土を制圧した。

 

 吉林の在満国民学校長であった後藤蔵人は、ソ連侵攻の翌々日11日

 軍人やその家族を乗せた列車が、南下するのをすでに目撃している。

 軍人とその家族は、11日にすでに列車でさっさと帰国するため乗り込んでいた。

 

 吉林の四合屯の開拓民が、ソ連参戦の知らせを聞いたのは、11日の夕刻

 そして日本降伏を知らされたのが、16日、、、、、

 もうとっくに軍人と家族が、列車で帰国した後だった、、、、、

 

 この開拓民の人たちは、的確な情報や指示を与えられず、世の中のことは

 何一つわからない存在として、置き去りにされたのです。

 四合屯の開拓民だけではない、関東軍はソ連作戦の変更や、戦力の著しい

 低下をソ連に気づかれぬようにするため、軍の状態を秘密にしさらに

 居留民を動かせば、その意図が明らかになってしまうとし、軍事目的を優先させた。

 

 こうして遺棄された居留民を待ち受けていたのは、過酷な運命であった。

 とりわけ悲惨だったのが、国境地帯や奥地の開拓団だった。

 開拓団の土地は、中国国民の土地を安い価格で取り上げることが多かった。

 土地を奪われた中国農民は、反満抗日闘争に立ち上がり開拓村を襲った。

 

 四合屯の開拓民は、武器微発と称してやって来たソ連軍に、貴重品一切を

 奪われ匪賊の襲撃を受け、家財道具を奪われた。

 こうして身一つとなった老若男女の死の逃避行がはじまるのです。

 

 ★満州三大悲劇

 

●葛根廟事件

 

 佐渡開拓団事件、葛根廟事件、麻山事件を満州の三大悲劇といいます。

 中国残留孤児は、葛根廟事件から生まれました。

 1945年8月9日未明、ソ連侵攻が開始

 10日と11日興安が爆撃を受け、都市の機能はほぼ全滅、破壊された。

 

 11日、午後4時、興安市在住の日本人約千数百名が、近郊のウラハタに集結

 興安省参事官、浅野良三の指揮のもと、行動隊が組織された。

 行動隊の当初の目的は、100キロ離れたジャライトキだったが、12日からの

 雨や興安軍による馬車の略奪などにより、計画を変更

 

 葛根廟を経由し列車で白城子へ避難、同地で関東軍の保護をうけつつ

 列車でさらに南下するという計画をたて、徒歩で移動を開始した。

 8 月14日、午前11時40分ごろ、行動隊が葛根廟付近まで達したところで

 ソ連軍戦車14両とトラック20台に搭乗した歩兵部隊に遭遇した。

 

 浅野参事官は、白旗を上げたが射殺された。

 ソ連軍は、丘の上から行動隊に対し、攻撃を開始した。

 避難民をひき殺していった。

 戦車の後方からは、ひき殺された人々が、キャタピラに巻き込まれ宙に舞ったという。

 

 ソ連軍は攻撃をある程度続けると、丘に引き返し何度も避難民をめがけて突入しながら

 攻撃を繰り返した。

 戦車による攻撃がやむと、トラックから降りたソ連兵が、生存者を見つけ次第

 次々と射殺、銃剣でとどめを刺していった。

 

 2時間余りの間に、非武装の女性、子供を主体とした1000人以上が殺害され

 生存者は110数名だった。

 殺害を免れた者も、戦車にひかれたり被弾して負傷した者であり、大勢が自決した。

 

 200名近くの児童は、興安在満国民学校の子供である。

 生存者に対する襲撃は、執拗を極め暴民によって下着まで身ぐるみ

 すべてをはがされた。

 暴民から逃れようと川で溺死した者もいた。

 

 ある女性はソ連兵に子供をひき殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服をすべて

 はぎとられたうえ、釜で乳房を切り取られている。

 暴民たちは、生き残った子供を見つけると母親を棒で殴りつけ

 子供を奪っていった。

 

 当時、日本の男児は300円、女子は500円で売買されるのが一般的だった。

 行動隊の生き残った子供は、中国残留孤児となった。

 

 ●佐渡開拓団事件(清和開拓団)

 

 1945 年8月27日、ソ連参戦により入植地を追われた日本人開拓団は

 ハルビンへの逃避行の途中、ソ連軍に遭遇した。

 ソ連軍の偵察機を撃ち落としたため、報復がありもはや助からぬと観念した

 開拓団員はソ連軍の戦車隊へ突撃し、玉砕し女たちは子供を連れて自決した。

 

 このソ連軍の攻撃で、950名が死亡した。

 同時に引き起こされた集団自決で、514名が亡くなったとされている。

 死者は合計1464名に上り、満州最大の悲劇と言われている。

 

 場所は黒龍江七台河市郊外にある。

 ここはかつて佐渡と呼ばれた。

 数少ない事件の経験者の中に、押田九十九さん、大橋庄田次さんの妻、すえのさん

 中山四郎さんの妻、やよいさんがいる。

 開拓団の名は清和開拓団。

 

 ソ連国境の近くの東安省虎林県清和地区に、新潟県出身者を中心とする

 第七次清和開拓団が入植を始めたのは、1938年。

 1941年には、7部落189戸883名の入植が完了している。

 

 結果的に清和開拓団は、883名のうち、654名が戦闘襲撃、自決で死亡し

 生き残った人々の多くも難民収容所で死亡した。

 翌年、日本の土を踏んだのは、50名という全滅に等しい悲劇の集団である。

 

 

 押田は38年の結婚後、すぐに開拓団に参加。

 45年の根こそぎ動員で、招集を受けたが疾病の関係で開拓団に戻った。

 ソ連参戦の時の様子を

 【8月8日から雨が降り、真夜中にひどい雨音で目が覚めました。

   同時にキュンキュンという聞きなれない爆音がしていました】

 

 宇井つねも帰国を果たした人で、清和開拓団第一部落出身である。

 つねは19歳で現地で、片岡国平と結婚した。

 国平は33歳だったが、奇跡的に招集を免れた。

 

 8月9日の朝、退避命令が下った。

 国平は他の部落に馬で走っており、つねは3歳と1歳の子供を連れて

 本部に集合した。

 

 200名くらいの人が集まっていたという。

 その後、一団は清和駅に向かったが、避難列車はすでに出た後だった。

 とにかく避難列車に乗れなかったことが、運命の別れ目の一つとなる。

 

 子供たちを馬に乗せ、つねは手綱を必死に引いた。

【隣の第六次開拓団に、ついたのですが避難した後で、だれもいませんでした】

 

その日の夕刻、虎林県公署にたどりついたが、建物は空襲を受けて燃え上がり

日本人はすでに誰もいなかった。

役人、関東軍関係者は、いち早く安全な後方に移動し、清和開拓団658名は

完全に棄民とされていたのである。

 

【ぽつぽつ雨が降ってきましたが、雨具もなく、濡れながら進みました。

 ぬかるみに馬車の車輪が埋まり、馬も人もみじめでした】 つね

 

【道なんて言えるものではありません。

 けものみちのようなところを進むんです】 押田

 

朝になり、沼に水を汲みにいくと戦闘があったらしく、死体がたくさん沼に浮いていた。

その後、馬車を壊し燃料にして調理をした。

夜行軍の末、8月10日の朝、完達嶺義勇隊開拓団に到着した。

 

この日は午後から雨となり、その後、雨の中の野営を繰り返すことになる。

12日、東索倫開拓団に到着

ここで迅速な移動のため、一切の荷物をそこに捨てている。

この日から13日にかけ、宝清付近で後尾のグループは、満人に襲撃を受け

ほとんどが全滅することになる(宝清事件)

 

【私たちは宝清開拓団につきましたが、人は誰もいませんでした。

 皆で家の中に入りました。

 休む間もなく匪賊が襲ってくるという連絡が入り、また馬車に皆を乗せて走りました。

 何日も眠っていないので、手綱を持ちながら居眠りをしてしまいました】 つね

 

清和開拓団は7つの部落に分かれていた。

押田たちは第一部落であった。

つまり戦闘の集団であったことが幸運だった。

後方の6,7部落は襲撃により、ほとんど全滅している。

その死者は181名という数にのぼる。

 

【夫が現れほっとしました。

 馬車は壊れてしまい、夫と子供を一人ずつ背負って進みました。

 途中で歩くことができず、止まった親子もたくさんいました。

 私たちは避難する最後尾の開拓団だったのです。

 現地の人は私たち日本人を嫌っていました。

 塩をもらいにいっても追い返されました。

 昼間は危険で夜だけ行動していました。

 食べ物は、畑のいもやとうもろこしを生で食べました。

 火を使うことができなかったからです。

 やはり途中で戦闘もありました。

 15歳以上の人は銃をとり戦いました。

 私の夫のあごに銃弾が貫通して、上の歯が全部なくなりました。

 でも薬も何もないのに治りました。

 精神力が強かったんですね、とても痛かったと思います】 つね

 

つねたちの集団はすでに30人くらいになっていた。

ようやく線路に出る。

やはり大勢は危険ということで、さらに小グループに分かれる。

そして8月20日、佐渡開拓団に到着

【食べ物がないので、ここまで連れてきた馬を殺してブリキの上で焼いて食べました。

 子供たちが栄養失調で、死にはじめていました。】 つね

 

その後、何度も血路を開こうとするが、そのたびに土民の襲撃をうけ

そのたびに佐渡開拓団に戻っている。

佐渡開拓団には7つの開拓団が避難していた。

合計2300名とされる。

 

24日、ソ連機が不時着した。

いきりたった男たちが、発砲した結果であった。

そしてソ連の飛行機を焼却し、軽機関銃を2丁手に入れた。

佐渡開拓団は騒然となった。

 

ソ連軍の報復が予想され、混乱した。

その後の対応は、各開拓団に任されることとなる。

【自決を始める人もいました。

 家族を銃で始末している人もいました】 押田

 

清和開拓団の内部の意見も分裂し

【私たちは脱出することにしたんです。

 まずは馬を殺して食べました。

 肉を干して保存食にして携行しました。

 10名ずつの班に分かれて、25日の夜に脱出したんです。】 つね

 

これが運命的な選択であった。

翌日26日、白旗を挙げたソ連のトラックが日本人女性を目当てにやってきた。

それにたいして男子が攻撃を浴びせた。

ソ連兵士30名のうち、20数名が殺害されソ連軍は激怒した。

 

27日ソ連軍は1200名の部隊で未明より、佐渡開拓団に対し攻撃を開始した。

そして戦死と自決が錯綜した。

女子18名のみが生き残ったとされている。

残された清和開拓団のうち、371名がここで死亡した。

 

押田の妻と子、妻の親族合計10名あまりもこの中に含まれている。

【私はこの団の実情を祖国に伝えるため、家族を残して一人脱出したんです】 押田

 

押田九十九と片岡つねも運命的な選択ののち、牡丹江に向かって逃避行を続けた。

つねには二人のこどもがあり、夫とともに背負った。

【山には死体がたくさんありました。

 夏ですからすぐにうじも沸くんです。

 母親を失った赤ん坊が、山中で這っていました。

 9月になって牡丹江の近くの梅林あたりで、日本兵に会い終戦を知らされました。

 さらにその兵士の勧めで、ソ連軍に投降しました。

 はだかにされ、川にいれられ消毒されました】 つね

 

牡丹江からハルビンそして長春にたどり着く。

【長春にたどり着いたときは、靴もなく裸足で歩きました。

 町はずれの兵舎に収容されました。

 もちを売ったりして生きていましたが、冬が迫ってきていました】 つね

 

少しでも南を目指し、一行は再び列車に乗った。

瀋陽まで南下する。

その瀋陽で越冬することになる。

駅前の国際倉庫で越冬することになった。

 

押田は紡績工場、つねはクリーム工場という具合に仕事にもありつけた。

しかし発疹チフスにより、つねの両親、弟、妹が相次いで死亡した。

【難民収容所には、大きな穴があらかじめ掘られていて、何千人も容れられたんです。

 マグロのように人間が凍っていました】 つね

 

 46年5月25日、帰国の途についた。

 清和開拓団の実質的な生存者は30名足らずであった。

 つねはこうして二人の子供、両親、弟、妹を失った。

 夫国平は、苦労がたたり1957年に結核で死亡した。

 押田はすべての肉親を満州で失った。