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明治政府とは

幕府を倒して成立した明治新政府とは、天皇を中心とする中央集権国家を

目指す政府です。

 

中央集権国家とは、政府が直接全国を治めること。

この明治政府のスローガンは、富国強兵、、、、

富国強兵とは、国を豊かにし強い軍隊を創りそれにより

欧米列強に対抗できる国家を目指すこと。

このようなスローガンを基に明治政府はスタートしました。

 

★★★腐敗しきった明治政府

 

通説     文明開化の大合唱の中、これまでの風俗は野蛮だとし

       西洋風を推進

 

歴史の真相  明治政府はその初期から、権力欲、金銭欲にどっぷりと

       浸かっていた。

 

 

あの福沢諭吉は、「権力は腐敗する」と言った。

そしてその通り明治政府は腐敗していったのです。

明治政府の腐敗の理由は、ある二つの事件によって証明されています。

 

山城屋和助事件と尾去沢銅山事件です。

この二つの事件には、明治政府の人物たちが大いにかかわっています。

これらはその後の明治大正昭和の大きな疑獄事件の素となり、今日の政権

政治家や企業人の腐敗、論理観の欠落のルーツになりました。

 

それでは二つの事件を見てみましょう。

 

●山城屋和助事件

 

 これは典型的な汚職事件です。

 単なる汚職事件というより、陸軍省疑獄と呼ぶような醜悪な事件です。

 山城屋和助、元の名を野村三千三(のむら みちぞう)という。

 

 彼は長州奇兵隊の幹部でした。

 そして山縣有朋の部下でもありました。

 維新後、野村は山城屋和助と名乗り、商人になります。

 

 そして山縣の引きで兵部省御用商人となりました。

 山縣が山城屋からの軍需品納入に、便宜を図ったことにより

 山城屋はたちまち財を成します。

 そして豪商にまでのし上がるのです。

 これにより山縣自身も財を成したことは言うまでもありません。

 

 典型的な癒着です。

 

 山縣だけでなく、長州の軍人や官吏の遊興費はすべて

 山城屋もちであったという。

 その癒着で山城屋は、生糸相場にも手を出しその資金を何の担保も出さず

 陸軍省から引き出したのです。

 兵部省は改組され陸軍省となっていました。

 

 国庫であり公金です。

 長州人は国家を私有物として、扱っていたのです。

 その額なんと15万ドル、、、

 この構図が長州型政治として、今日まで引き継がれているのです。

 

 山城屋と陸軍省の汚い関係がやがて表面化し、山縣は辞表を提出。

 これを救ったのが西郷です。

 西郷は山縣を陸軍大輔に専念させたのです。

 

 山城屋は証拠書類をすべて焼き払い、明治5年11月陸軍省内の一室で

 割腹自殺を遂げ、これにより事件は闇に葬られることになりました。

 

 

●尾去沢銅山事件

 

 これも長州人による権力犯罪です。

 伊藤博文、井上薫は新政府きっての女癖の悪い男たちです。

 また金銭欲が強かったことでも有名です。

 

 この伊藤博文と、井上薫は高杉晋作の子分として走り回っていました。

 女と金を求めて動乱の時代を疾駆していたのです。

 そんな井上を政府は、大蔵大輔に任命したのです。

 

 新政府、長州はこんな人物を大蔵大臣にするしかないというほどの

 性格をよく表しています。

 井上は長州俗論党に襲撃されたことがあります。(袖解橋の変)

 

  井上を大蔵大輔に任命するなどと言う人事は、盗人に財布を預けるようなものです。

 大蔵省は井上が私物化していました。

 南部藩は御用商人村井茂兵衛から、多額の借金をしていました。

 

 当時の習慣により証文には、「奉内借」と書かれていました。

 これは藩への貸付金の一部でも返却されたときに提出することを想定した

 文言であって、武家や大名家町民である商人との間の儀礼的慣例です。

 

 井上はこれを村井が藩から借財しているとして、政府への返却を命じたのです。

 そして大蔵省も村井の釈明を一切聞かず、村井に返済をせまりました。

 官憲を悪用した露骨なやり方です。

 

●日本近代史の研究家 毛利敏彦 中央公論社

 

 「やむを得ず村井が年賦返済を嘆願すると、それを拒絶して理不尽にも村井が経営していた

  尾去沢銅山を一方的に没収した。

  旧幕時代にも例をみないほどの圧政といえよう。

  村井は銅山経営権を入手するために、十二万四千八百円を費やしていた。

  ここに村井は破産同然となった。

  大蔵省の強引なやり方を見ると、藩債返却云々は口実で、当初から尾去沢銅山

  没収を狙っていた疑いが濃い。」

 

 尾去沢銅山を没収した井上はこれを井上家出入りの成り上がり政商、岡田平蔵に払い下げます。

 井上は大蔵省を辞職後、尾去沢銅山を視察、そして現地に「従四位井上薫所有地」という

 看板を堂々と掲げるという厚顔無恥なふるまいを行っています。

 ここに出てくる井上も岡田も長州人です。

 

 木戸孝允は井上の事件もみ消しと救済に奔走します。

 木戸は子分の井上の自宅を訪問し渋沢栄一を交えて、事件もみ消し工作を談合しています。

 動乱の時代、逃げの小五郎と言われた桂小五郎は、維新後木戸孝允と名を変えて維新後は

 長州の子分たちの犯罪をもみ消すことに専念しています。

 木戸孝允は、維新後は自分の子分たちの犯罪もみ消しに一生けん命だったんです。

 維新前は逃げの小五郎が、、、、

 

 桂小五郎も、井上薫も明治政府時代はこんなことに奔走していたんですね。

 こんな権力欲、金銭欲に支配され汚濁にどっぷり浸かった政府が徳川近代を全否定した。

 そして敗戦を経てもなおこの政治形態が生き続けている。

 政界真っ暗闇、、、て感じですね。

 

 こんな政府が大東亜戦争へと突入していきます。

 

★★★哀れ赤報隊

 

明治維新は失敗に終わりました。

それなのに日本の歴史では、明治維新は成功し明治の世の中になったと

教えられています。

 

あの徳川から明治に変わろうとする混乱の時期、いったい何が起きて

いたのでしょう、、、、、、

薩長は何が何でも討幕をしたい、、、、、徳川を倒したい、、、、

 

そこで偽の討幕の勅許を作る、、、、

ところが慶喜は先手を打って、大政奉還に出ました。

これにより討幕の大義名分を消滅させたのです。

 

政権を返上した者を討つことはできない、、、、

 

そこでまたも岩倉や大久保たちは、クーデター計画を起こすのです。

幼い天皇を人質に取って、この計画は決行されました。

薩長の連中は、さすがテロリストというだけあって、やることが荒っぽい。

 

自分たちの目的のためならば、天皇だろうと人質にとる。

 

12月8日の夜、岩倉は自邸に五藩の代表を集め、王政復古の断行を宣言し

五藩に協力を求めました。

五藩というのは、薩摩、土佐、広島、尾張、福井です。

 

そして12月9日、天皇を臨席させ、王政復古の大号令を発した。

クーデターからすぐ天皇の御前において、三職会議が開かれた。

三職と判断しクーデターによって、設けられた総裁,議定、参与のこと。

 

この会議は慶應3年12月9日に開かれ御所内の小御所で開かれたので

小御所会議と呼ばれます。

この三職会議はもめにもめました。

 

出席者は16歳の明治天皇と皇族、公卿

元尾張藩主     徳川慶勝

前越前福井藩主   松平春嶽

前土佐藩主     山内容堂

薩摩藩主      島津茂久

安芸広島藩世子   浅野茂勲

 

その他に大久保一蔵、後藤象二郎、辻 将曹などが敷居際に陪席を許された。

この時、西郷隆盛は外で警備を担当していたという。

 

 

この会議では山内容堂と岩倉具視の対立でもめました。

山内容堂は尊皇佐幕派です、岩倉は長州の頭に立つ討幕派です。

 

 

この会議には徳川慶喜は出席していません。

それを山内容堂は強く非難しました。

そしてまだ幼い天皇を担いだ権力を私しようとする陰謀であると

断罪したのです。

 

このとき山内容堂は、「幼沖なる天子」という表現を用いたとされます。

岩倉はここをとらえ、「幼沖なる天子とは何事か」と反攻に出たとされる。

そして岩倉は、慶喜が辞官納地を行って誠意を見せることが先決であるという

主張を繰り返します。

 

徳川幕府将軍に対して、辞官納地をそれほど求めるならば

当の本人の慶喜を会議に出席させればいいのに、それを拒否した岩倉

 

核心をついた山内容堂の主張に、松平春嶽も浅野茂勲も徳川慶勝も同調した。

そしてここで会議は休憩に入る。

 

大久保とともに陪席を許されていた薩摩の岩下佐次右衛門がこの経緯を

西郷に伝えます。

その時、西郷は「短刀一本あれば片が付く」ともらしたという。

 

この一言が岩倉の耳に入って、岩倉は浅野に伝え、広島藩の浅野は辻に伝え

辻は後藤に伝え、後藤は主の山内容堂と松平春嶽に伝えたという。

山内容堂が身の危険を感じた時点で、会議の情勢が決したと言える。

 

再開後の会議で慶喜に辞官納地を求めることを誰も反対せず決議しました。

慶喜に辞官納地を求めることを決して、そのまま事が進めば王政復古は成立する。

つまり明治維新が成立したことになるのです。

 

慶喜に辞官納地を求めた小御所会議の時、慶喜は幕府1万とともに二条城にいた。

薩長を中心とする討幕派の兵5千も京都に集結していました。

山内容堂は双方が偶発的に衝突するのを懸念し、朝廷と慶喜に納地の問題は

大名会議を開き、分担割合を決めるなどの提案をし双方はこれを受け入れて

慶喜は松平容保らを伴い大阪へ下った。

 

山内容堂と松平春嶽は、幕末の四賢侯、、、などと言われていますが

ここまでが彼らの限界だったようです。

西郷の一言が国家の行く末を決する小御所会議の方向を左右してしまったのです。

その後、反対派に対し暴力、暗殺、武力恫喝が繰り返され

最終的に薩長政権は、対米英戦争へと突入していくのです。

 

慶喜はさらなる反転攻勢に出ます。

12月16日、大阪城に米英仏蘭プロシャ、イタリアの公使を招集し内政不干渉と

徳川幕府の外交権保持を承認させたのです。

その三日後には、朝廷に対し王政復古の大号令の撤回を要求したのです。

 

ついに朝廷は徳川政権による大政委任の継続を承認したのです。

つまり王政復古の断念です。

すなわち徳川幕藩体制は維持されることになったのです。

 

ここに岩倉と薩長の偽造勅許による討幕と軍事クーデターによる策謀は失敗

つまり明治維新は失敗に終わったのです。

 

小御所会議で決した慶喜の辞官納地も完全に骨抜きにされました。

12月28日、慶喜は朝廷からの「辞官納地の論書」に対する返事を出します。

その内容は

●徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)を認める。

●徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主宰する。

●諸大名会議で朝廷へ献上する費用の分担割合を取りまとめる。

 

以上のような史実が存在します。

学校教育はこの時点で完全に失敗したと教えるべきです。

 

討幕の勅許を偽造したものの慶喜に大政奉還という先手を打たれ

軍事クーデターを起こして王政復古の大号令を発したもののさらに慶喜の

反撃にあつて徳川幕府計画は挫折した。

 

そこで小御所会議で西郷が漏らした一言「短刀一本あれば片が付く」を

薩長は実行することになります。

直接武力で幕府を攻撃する、、、、つまり戊辰戦争です。

 

 

★赤報隊

 

そして西郷は戊辰戦争決行のため、赤報隊という部隊を組織します。

隊長は相楽総三、西郷は相楽たちに何を命じたのでしょう。

江戸の旗本御家人などの幕臣や佐幕諸藩を挑発することです。

 

 

つまり放火、略奪、強姦、強殺です。

毎晩のように徒党を組んで江戸の商家へ押し入り家人や近隣の住民が惨殺された。

そして必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込む。

 

江戸の市民はこのテロ集団を「薩摩御用盗」と言って恐れた。

夜の江戸市中から人が消えたという。

遂に幕府は庄内藩江戸市中取り締まりを命じる。

 

赤報隊のテロもますます激化、、、、

江戸だけでなく野州、相模甲州にまで拡大、、、、

そしてついに庄内藩屯所に銃撃するに至る。

 

耐えに耐えてきた庄内藩も遂に堪忍袋の緒がキレ庄内藩と幕府は、

三田の薩摩藩邸を砲撃、、、、これが薩摩藩邸焼き討ちです。

赤報隊の江戸での無差別テロの挑発に幕府が乗った。

これが戊辰戦争への直接的な引き金、京都における鳥羽伏見の戦いの始まりです。

 

明治維新の成立について、決定的な道筋をつけたのは赤報隊のテロ活動でした。

赤報隊

一番隊   相楽の昔からの同志たちが中核をなす赤報隊の中心

二番隊   新選組を離脱した御陵衛士が中核をなしている

三番隊   近江出身者が中心となっている主に近江水口藩士です

 

赤報隊は正式の討幕軍の一部隊として、薩長討幕軍の先鋒を務めることになる。

赤報隊は年貢半減を宣伝しながら、東山道を進軍した。

討幕軍も年貢を半減すると公約して、東へ東へと進んだ。

 

このころは各地で一揆が頻発しており、赤報隊の掲げる年貢半減は大いに受け

薩長討幕軍の東進を大いに助けたのです。

しかし薩長の中枢は、赤報隊にたいし口頭では許可したが、文書には残していません。

 

すぐ年貢半減を取り消し、赤報隊がかつてに触れ回ったとして、赤報隊は議官軍だとし

追討したのです。

相楽総三以下、赤報隊の一番隊は慶應4年3月早々、諏訪湖にて処刑されました。

二番隊は京へ戻され新政府に編入

三番隊も桑名で処刑されました。

 

 

相楽たち赤報隊は、維新に失敗しつつあった薩長と岩倉たちに利用され

使い捨てにされただけでした。

彼らが江戸市中で行った蛮行は許しがたいが、彼らは西郷の命をうけ

行った行動でした。

 

 

相楽が処刑された直後、知らせを受けた妻は後を追って自害しました。

相楽はこの時30斎でした。

 

 

知ってはいけない明治維新の真実著原田伊織

 

★本当の終戦記念日

 

こんにちわ

今年もまた終戦記念日がやってきますね。

 

ところで戦後80年も経つと、人間というのは同じことを

繰り返す生き物なんでしょうか???

もうすぐ8月15日、日本でいう終戦記念日がやってきます。

日本でいう、、、、というのは世界では終戦記念日は9月2日です。

これは常識です、日本だけが8月15日としています。

 

どうして日本だけが世界の常識と違うのでしょうか。

日本だけが世界の常識と違うのは、ほかにもたくさんあります。

今回は終戦記念日について見ていきます。

 

1945年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が初めてNHKの

ラジオで流れました。

【私は世界の大勢と大日本帝国の現状に照らして、非常の措置をもって

 時局を収拾したいと思う。

 忠実で善良な国民に告ぐ、私は帝国政府に対し米国、英国、中華民国

 ソ連の四か国が提示した共同声明を、受け入れることを通告させた】

 

通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び講和条約の交渉をして

調印し始めて終戦となります。

米国、英国、中国、ソ連の外交官は、日本と連合国の戦争が終わった日を

誰も8月15日とは言いません、必ず9月2日と言います。

 

1945年9月2日、東京湾に停泊していた米国戦艦ミズーリ号で、日本は

降伏文書に署名しています。

つまりこの日が本当に日本が、降伏文書に署名した日であり終戦記念日

なのです。

 

米国のトルーマン大統領は、9月2日の降伏調印式の後ラジオ放送を行い

この日を「対日戦争勝利の日」と宣言しました。

そして

「我々は真珠湾攻撃の日を記憶するように、この日を報復の日として

 記憶するだろう。

 日本の軍閥によって犯された罪悪は決して償われもせず、忘れられる

 こともないだろう」

 

ソ連のスターリンは

「かつての日露戦争は、我が国の歴史の汚点である。

 我が国民は日本が敗北して、この汚点が払しょくされる日が

 訪れることを確信かつ待望したが、今やその日が到来した」

 

英国のチャーチル首相は

「本日、日本は降伏した。

 最後の敵はついに屈服したのである。

 平和は再び世界に訪れた、この大いなる救いと慈悲に対し

 神に感謝を捧げようではないか」

と述べています。

 

日本が終戦記念日を8月15日とし、9日2日としていないのは

なぜでしょうか。

9月2日は日本が降伏した日だからです。

降伏という厳しい現実から目をそらし続けているのです。

だから玉音放送が流れた8月15日を終戦記念日としているのです。

 

降伏文書に調印した9月2日、そこに何が書かれてあったのでしょう。

降伏文書には、

「日本のすべての官庁および軍は、降伏を実施するため連合国最高司令官の

 出す布告、命令、指示を守る。」

 

「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官からの

 要求にすべて従う」

 

と書かれてあります。

日本政府は、連合国軍最高司令官からの要求にすべて従わなければならない

ことを約束したのです。

こんな屈辱的な日を終戦記念日と、したくなかったのです。

 

日本は敗けた無条件降伏した、、、本当はここから新しい日本を

始めるべきだったのです。

そして降伏ではなく、終戦という言葉を使って戦争に負けた日本の

これから始まるべき厳しい状況について、目をつぶり続けてきたのです。

それが日本の戦後でした。

 

 

 

★★★失敗に終わった明治維新

 

★テロリズムからクーデターへ

 

通説    勤皇の志士たちが江戸幕府を倒して、近代化の扉をひらいた。

歴史の真相 勤皇の志士と呼ばれる多くの人物たちは、放火、略奪、暗殺という

      行為に繰り返し手を染めたテロリストです。

      

明治維新至上主義者である司馬遼太郎氏は、幕臣小栗忠順を「明治の父」と

称しています。

そして聯合艦隊司令長官、東郷平八郎は戦後、小栗忠順の遺族を私邸に

招き謝意を伝えています。

 

それは小栗が横須賀に建造した造船所がなければ、日本海海戦の勝利は

なかったという意味での謝意です。

また、株式法人組織の導入、廃藩置県構想、鉄道網整備構想、海軍の創設

国民軍の創設、郵便制度の創設などなど、、、、

幕臣官僚たちが描いた青写真や、すでにこのころスタートを切っていた

事業などはそのまま明治政府へのお土産となってしまいました。

 

幕臣官僚たちが明治政府へ残した数々の遺産は、学校の教育だけではありません。

それは遊びやエンターティメントの世界にも、残っています。

それが当時、大ヒットした映画「鞍馬天狗」です。

 

長州藩士、桂小五郎らを助ける鞍馬天狗は、白馬にまたがる正義の志士で

新選組は極悪非道な人殺し集団ということになっていました。

事実は真逆で、桂小五郎らは極悪非道なテロリストで、新選組はこの

テロリストたちを取り締まる警察組織です。

 

私たちは半世紀以上も老若男女問わず、日本人はすべて官軍教育を

徹底して教え込まれたのです。

テロリストの多くは、会津藩の「会津」を正しく「あいづ」と

読めなかったし、それがどこにあるかもわからない者が多かった。

彼らはそういう知的レベルの集団でした。

 

そういう者たちがわけもわからず攘夷を叫び、自分たちを正義の志士と

称し殺戮の限りを尽くしたのです。

 

 

★勅許偽造と王政復古大号令の失敗

 

通説    王政復古の大号令が発せられ、明治維新が成立した。

歴史の真相 幼い天皇を人質として行ったクーデターが、王政復古の

      大号令です。

 

長州、薩摩のテロリストたちは尊王攘夷を声だかに叫ぶ。

しかしそれは討幕のためのそのためのテロ活動のための大義名分でした。

テロリストたちを動かしていた桂小五郎や西郷隆盛、大久保利通たちは

尊皇という意識は全くなく、天皇そのものを単に利用しただけにすぎません。

 

慶喜が15代将軍となったのは慶応2年12月5日です。

その20日後の12月25日、孝明天皇が崩御、ここから幕府権威は急速に衰退

慶応3年9月土佐藩が大政奉還の建白書を提出、土佐藩が建白書を提出してから

わずか12日後、大政奉還が成立しました。

 

大政奉還が成立すれば、薩長はもう討幕に打って出ることはできません。

 

この時親徳川派の公家たちが朝廷の主導権を握っていました。

そこで岩倉や大久保たちは、偽の討幕の勅許を作ったのです。

日本史に例をみない犯罪を、岩倉や大久保たちはやったのです。

これをみてもいかに朝廷を天皇を軽く見ていたかがわかります。

 

 

大政奉還とはいっても、朝廷には 政権運用能力はありません。

大政奉還から一週間後、朝廷は外交について引き続き幕府が担当することを

示唆しています。

 

朝廷が外交は引き続き幕府が担当することを命じた直後、慶喜は

征夷大将軍の辞職を朝廷に願出ました。

このままでは公武合体が成立しそうな状況に、討幕派はクーデター計画を

画策します。

 

そしてまだ15歳の天皇を人質として、決行したのです。

薩長はテロリストだけあって、やることが荒っぽい、、、、

そして12月8日の夜、岩倉具視が自邸に薩摩、土佐、広島、尾張、福井の5藩の

代表を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めました。

 

明けて12月9日,朝議を終えた摂政以下、上級公家が退出するのを見計らって

薩摩はじめ5藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家衆の参内を阻止し岩倉が参内

明治天皇を臨席させ、王政復古の大号令を発したのです。

 

その大号令の内容は

●徳川慶喜の将軍職辞職を勅許する。

●京都守護職、京都所司代を廃止する。

●江戸幕府を廃止する。

●摂政、関白を廃止する。

●新たに総裁、議定、参与の三職を設置する。

 

つまり王政復古などと言いながら、上級公家の排除と薩長主導の

政権奪取の宣言に他ならない。

このクーデター、成功したのでしょうか。

 

学校教育では大政奉還がなされ、王政復古の大号令が発せられて

明治維新が成立したという流れになっています。

そういう流れにならないと、具合が非常に悪いのでしょう。

 

しかしこのクーデターは見事に失敗したのです。

成功していれば此の後の戊辰戦争は起きていません。

失敗したからこそ武力に訴える必要が生じたのです。

 

そして慶喜はその三日後、朝廷に対し王政復古の大号令の撤回を求めました。

そして朝廷も徳川政権による大政委任の継続を承認しました。

つまり王政復古の断念です。

つまり徳川幕藩体制は維持されることになったのです。

 

ここに岩倉と薩長の偽造勅許による討幕、軍事クーデターによる

討幕の策謀は敗北しました。

明治維新は失敗に終わったのです。

 

学校教育もこの時点で明治維新は失敗に終わったと教えるべきです。

詳しいことは次回に、、、、

 

 

知ってはいけない明治維新の真実著原田伊織