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こんにちわ、どうして不平等条約を結ばなければならなかったのかについて

見ています。

不平等条約とは日米安保条約のことですね。

 

この条約を結ばされるまでには、いろいろなことがありました。

この条約を結ばされてからも、日本の政治家の暗殺や失脚がありました。

そういういろいろなことを経て、今の日米安保条約があります。

 

この安保条約は、吉田茂首相のワンマン外交のたまものだと日本では

定説になっていますが、こういう不平等条約をたかが首相の吉田一人が

結べるわけもないし、できません。

 

結論からいえば、日本の当時の最高権力者である天皇がアメリカと

結んだ条約が日米安保条約です。

それではなぜ天皇は、吉田外交を押しのけて、アメリカとこんな

不平等条約を締結してしまったのでしょうか、、、、

それを見ていきたいと思います。

 

★虚構で運営されている国

 

この日本という国は、明治維新から虚構で運営されている国です。

虚構とは、実際にはない,作り上げたこと、またその作りごとを仕組むこと。

フィクションです。

 

あの敗戦を終戦と言いくるめ、天皇の責任は追及されず

現代史家はすべて臭いものにフタをした。

戦後、裕仁の資産はあの池田勇人によって秘匿され

国の内外から集められた多くの貴金属は、田布施システムの基金となった。

その金額は国家予算に匹敵する。

 

 

戦後は天皇にとって大きな賭けであった。

 

自分の号令下で働く軍隊はなくなった。

天皇制を守ってくれるのは、米国しかなかった。

米国はペンタゴンの奥深くフルベッキ写真の原盤をもっている。

明治維新以来の日本権力の成り立ちを抑えているのだ。

 

戦後、瀬島龍三と宅見勝という二人の男は、てんのうはんの守りびと

てんのうはん、、、とは長州では天皇のことを言う。

明治天皇が田布施出身であることを知っている。

明治政府の幹部たちは、大室寅之祐が明治天皇になったことを知っている。

 

この秘密を守るため田布施システムなるものが作られた。

瀬島龍三は2007年9月4日、95歳で亡くなった。

そして田布施システム、、、とは呼べないので、

日本戦略研究フォーラム、、、と名を変えて田布施システムを残した。

 

また、田布施システムは明治維新以来、てんのうはんの守りびととして

やくざ組織を大事に育ててきた宅見勝が殺された。

1997年8月28日新神戸オリエンタルホテルで。

 

瀬島は大本営参謀として、裕仁の保身のため戦争立案を遂行

シベリアから帰国すると、伊藤忠に入り武器商人となった。

国鉄も解体させた。

 

宅見は、山口組の若頭としてバブルを演出し最大の経済やくざとなった。

 

とにかくこういう二人が田布施システムの守りびとでした。 

 

★万世一系ではない証拠

 

天皇家は万世一系ではない。

125代並べても、途中で何度も断絶している。

まして神話時代からの怪しい継続の話しになると、何を言わんかや、、、

 

万世一系の大ウソは、日本書紀で創り上げられる。

天武天皇のころ、歴史の大幅な改ざんが行われている。

天武と天智は兄弟ではない。

 

天武は新羅系で、天智は百済系

日本という呼称も天武のころできた。

大陸から朝鮮半島を経由した支配階級が作った国

 

倭わ、、、倭やまと、、、大倭やまと、、、日本となる。

そして呼び方がかわるたび、王朝の交代が起きている。

 

明治天皇となった大室寅之祐は、大室家に後妻に入った母親の連れ子です。

朝鮮系の部落民でした。

戦国時代守護大名は、天下を取るため皇室の流れをくむ

親王たちを匿った、大室家もその一つです。

 

明治時代は暗殺の横行した時代、支配者になった人間が

次々と抹殺された。

横井小楠、西郷隆盛、江藤新平、島義勇、、、、

明治天皇が大室寅之祐であることをばらす者は、すべて排除された。

 

そしてその総仕上げをしたのが、伊藤博文でした。

つまり天皇家の秘密を守るため、天皇制を守るための軍隊はもうない。

天皇はアメリカと不平等条約を結ばざるを得なかった、、わけです。

 

日本だけではありません

世界中の国々の歴史は、大国との関係によって決まります。

第二次世界大戦を経て、米国は世界最強の国になりました。

米国は他の国をどう使うか、どう動かすか戦略があります。

 

ざっと書いてきましたが、よくわかりませんね。

次回から詳しく見ていきます。

 

戦後史の正体著孫崎享 ほか

 

★ウソまみれ女

 

小池百合子がやっと出馬表明して、都知事選も花盛りですね。

そこで今日は、小池百合子のうそのオンパレードを見てみたいと思います。

 

小池百合子都知事 「東京都知事を務めまして2期8年。世界の動きを止めた新型コロナウイルスとの闘い、東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の開催など、歴史に残る数々の都政に、文字通り、全身全霊をかけて取り組み続けた日々でございました。

志を同じくする仲間に恵まれ、都議会の皆様のご理解ご協力を賜りながら、都庁職員と駆け抜けたこの8年、様々な分野で東京に確実な変化をもたらしております。

激動の時代にありまして、広い世界の中で我が国の現在地を俯瞰をいたしますと、少子高齢化、人口減少、自然災害、世界的に大きく遅れを取る女性活躍やデジタル化など、総力をあげて取り組むべき課題が未だ山積しております。

だからこそ、様々な課題が顕在化、そして先鋭化する東京都政におきまして、先駆的な政策を行なってまいりました。

所得制限を設けない018サポートなど、一連のチルドレンファーストの子育て施策は、これまでの在り方に一石を投じ、国をも動かしております。

100年先もすべての人が輝く、明るい東京の未来を創ることを大義といたしまして、都民の皆様の共感を得て、確かな道筋を紡いできた東京大改革。大胆な構造改革を成し遂げてこそ達することのできる、持続可能な社会の力強い歩みを今ここで止めてはなりません。

都民が第一、都民のため、もっと東京を良くしてまいりたい。この私の思いに共鳴する多くの方々からの要請も踏まえまして…」

「もっとバージョンアップさせた東京大改革3.0を進めて行く。

その覚悟を持って、7月の東京都知事選挙への出馬を決意いたしました。

これからも都民のために、都民とともに、もっともっと都政の発展へと全力を尽くしてまいります。改めてこれまでの都民の皆様、そして都民の代表であられる都議会の皆様のご理解ご協力を賜りましたことに、改めて御礼を申し上げます。誠にありがとうございました」

 

以上が小池百合子の出馬の決意です。

 

●少子化対策

 

 1人の女性が生涯に産む子どもの人数を表わす「合計特殊出生率」は「2.07」を割り込むと、

 その国や地域の人口は自然減となります。

 日本は1970年代前半の「第2次ベビーブーム」の時は2.14もありましたが、1970年代後半から2.00を割り込むようになり

 1990年代の「バブル崩壊」で1.50を割り込みました。

 

 

小池都知事は自身の少子化対策を自画自賛しながら、8年間で合計特殊出生率を毎年のように下げ続け、

昨年2023年はとうとう1.00を割り込んで0.99にしてしまったのです。

これは全国初のワースト記録です。

ちなみに、小池都知事が就任してからの8年間の東京都の合計特殊出生率は、以下の通りです。

  • 2016年 1.24
  • 2017年 1.21
  • 2018年 1.20
  • 2019年 1.15
  • 2020年 1.12
  • 2021年 1.08
  • 2022年 1.04
  • 2023年 0.99

 小池都知事は12日の出馬宣言の中で「所得制限を設けない018サポートなど、一連のチルドレンファーストの子育て施策は、

これまでの在り方に一石を投じ、国をも動かしております」などとドヤ顔で自画自賛しました。

ちなみに「018サポート」とは「都内在住の0歳~18歳の子どもに月額5,000円を支給する制度」ですが、

小池都知事はこれを「所得制限なし」にして、両親がどんな大金持ちでも富裕層でも子ども1人につき月5,000円、

1年で6万円をバラ撒き始めたのです。

 

ばらまくのはいいが、低賃金や将来への不安が原因で、結婚したくてもできない若者が

月額5,000円で一体何ができると言うのでしょうか。

結婚も子供もつくることができないじゃない。

 

いくら小池都知事が「これまでの在り方に一石を投じ」だの「国をも動かし」だのと大言壮語で自画自賛しても、

ただ「チルドレンファースト」と呼ぶ子育て政策は、単に子どもをダシに使った票集めのためのバラ撒き政策であり、

東京が直面している「全国ワースト1位の出生率」はこの8年間、1ミリも改善するどころか、悪化し続けて来たのです。

勝手に自画自賛している場合じゃない、、、、

 

●「カイロ大学の学歴詐称問題」

 

 また「カイロ大学の学歴詐称問題」では、ジャーナリストの佐藤章氏の質問に答えず逃げ出している。

 首席でちゃんと卒業しているなら、何も逃げ出す必要は全くない。

 

●データの捏造

 

小池百合子の掲げた

7つのゼロ、待機児童、介護職離職、残業、都道の電柱、満員電車、多摩格差、ペット殺処分、

ペット殺処分だけ2018年に達成したようだと人は思いますが、実際は東京都だけ全国とは違う

「殺処分」のガイドラインを作ったのです。

 

実際には年間150匹以上のペットを殺処分していたのにも関わらず、書類上だけ「殺処分ゼロを達成」

したかのようにデータを捏造したのです。

酷いですね、小池百合子はこういう捏造までしていたのです

(人気ブロガーのきっこさん)

 

●声、声、声、、、

 

 

🌸小池さんは公約を何も実現しませんでした。

 

🌸都議会では、都民ファーストの質問は受けるが都合の悪い質問には答えない。

 

🌸都のお金をオリンピックに湯水のごとく使った。

 

🌸都庁のプロジェクトマッピングには、何十億とポンと使ってしまう。

 

🌸8年にわたりお疲れさまでした、はっきり言って何もいいことのない8年でした。

 

🌸税金ばかり取られて、何もいいことのない8年でした。

 

🌸自民党が推薦しているか、していないか、つまり噓つきが支援しているかしてないか。

 

🌸学歴詐称のうそまみれ女

 

 

                    

こんにちわ

占領を経て米国の植民地と化してしまった日本の事情を見ています。

 

★天皇制存続のために

 

 天皇とその側近グループにとって、降伏とともに天皇の戦争責任追及の

 圧力にいかに対応するかという問題が、天皇制存続そのものに

 直結していたのです。

 つまり天皇の側にとって生き残る道は、占領権力への全面協力以外に

 なかったことは言うまでもない。

 

 マッカーサーと天皇の会見は、東京裁判が開廷した46年5月末以降

 半年に一度のペースで続けられました。

 マッカーサーの在任中、11回の会見が行われています。

 

 しかしそれらの会見は、ベールに包まれほとんど明らかになっていません。

 というのも天皇の発言内容は、一般民衆にあまり知られたくないものがあり

 国としても公表したくなかったのではないでしょうか。

 

 とはいえ何らかの経緯で、一部のマスメディアに公表されることになった

 会見内容からは、両者の議論は極めて具体的で高度に政治的であったという。

 その例をみてみましよう。

 

 ●第三回目会見記録 朝日ジャーナル 1989年3月3日号

 

 この会見は46年10月16日のことである。

 そこで天皇は5月19日の食糧メーデーや頻発する労働争議について

 【日本人の教養未だ低く、且宗教心の足らない現在、米国に行われる

  ストライキを見て、それを行なえば民主主義国家になれるかと思う

  ような者も少なからず】

 と厳しく非難し、事実上の取り締まりをマッカーサーに要請したのです。

 

 この発言を当時の国民が知ったなら、おそらく激怒したことでしょう。

 わずか1年数か月前まで、一億の日本人は天皇制への限りない

 宗教心をもって「天皇の戦争」を戦っていたのです。

 

 それが敗北に終わったのは、天皇によれば日本人の

 「教養未だ低く、且宗教心の足らない」

 ためであったからなのか、、、、

 

 ★すべてをアメリカに委ねたい

 

 47年5月3日新憲法が施行され、天皇は元首ではなくなり、象徴としての

 地位が確定しました。

 会見では施行されたばかりの新憲法をめぐって、議論が交わされます。

 

 ●会談記録 日本占領3

 

  天皇はまずこう切り出しました。

 【日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に

  期待せねばなりませぬ。

  しかし国連が極東委員会のごときものであることは、困ると思います】

 

 四大国が拒否権をもっている極東委員会を引き合いに出して、国連に期待

 できない旨を強調して、マッカーサーに意見を求めた。

 

 【日本が完全に軍備を持たないことが、日本のためには最大の安全保障であり

  これこそが日本が生きる唯一の道である。】

 

 と九条の精神を天皇に説いたのです。

 

 そして天皇は

 【日本の安全保障を図るためには、アングロサクソンの代表者である

  米国がそのイニシアブを執ることを要するのでありまして、このため

  元帥のご支援を期待しております】

 

 と事実上アメリカの軍事力による、日本の安全保障を求めました。

 この議論は天皇が象徴としての、政治的行為を禁じられた新憲法の

 施行からわずか3日目に交わされているのです。

 

 天皇とマッカーサーの会見は、50年4月の第10回目が最後です。

 マッカーサーはこの後、朝鮮戦争の指揮にあたり多忙を極める。

 マッカーサーを引き継いだのは、リッジウェイという米国の陸軍軍人

 

 彼は1951年4月から1952年4月まで、第二代連合国軍最高司令官として

 日本の占領統治にあたりました。

 彼は朝鮮戦争で、窮地に陥った国連軍を救い出したことで有名です。

 

 ★二重外交の果て

 

 講和条約と安保条約をめぐり天皇外交ともいうべき、天皇の政治的

 行為をみてきました。

 公的な外交主体であるのが、吉田外交です。

 あの当時、日本は二重外交をしていたのです。

 

 公的な外交である吉田外交は、天皇外交によって封じ込められてしまった

 というのが事実です。

 マッカーサーが解任されて5か月後、1951年9月8日

 日本はサンフランシスコ講和条約と日米安保条約に調印しました。

 

 講和条約はサンフランシスコの豪華なオペラハウスで、安保条約は

 サンフランシスコ郊外の米国陸軍の基地の中で

 米国側は4人 アチソン、ダレス、ワイリー、ブリッジス

 日本側は吉田首相ただひとり

 

 なぜこうなったのか、こういうアンバランスなことは普通外交の

 世界では起こりません。

 でも、二重外交で吉田外交が封じ込められたとしたら、、、

 吉田は天皇の命令をたったひとりで背負ってこの安保条約調印に

 臨まなければならなかったとしたら、、、、

 こういうことも起こり得るでしょう。

 

 安保条約とは、交渉の最高責任者が署名を固辞し続ける中で

 ダレスと天皇の圧力によって締結に至ったのです。

 交渉の最高責任者とは吉田首相です。

 吉田は国を売る真似はできないとして、安保条約に署名することは

 できないとして固辞し続けた。

 

 もし吉田がそのような条約に署名していたら、袋叩きにあうだけでなく

 命もなかったでしょう、、、、

 

 豊下楢彦著安保条約の成立