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★★★哀れ赤報隊

 

明治維新は失敗に終わりました。

それなのに日本の歴史では、明治維新は成功し明治の世の中になったと

教えられています。

 

あの徳川から明治に変わろうとする混乱の時期、いったい何が起きて

いたのでしょう、、、、、、

薩長は何が何でも討幕をしたい、、、、、徳川を倒したい、、、、

 

そこで偽の討幕の勅許を作る、、、、

ところが慶喜は先手を打って、大政奉還に出ました。

これにより討幕の大義名分を消滅させたのです。

 

政権を返上した者を討つことはできない、、、、

 

そこでまたも岩倉や大久保たちは、クーデター計画を起こすのです。

幼い天皇を人質に取って、この計画は決行されました。

薩長の連中は、さすがテロリストというだけあって、やることが荒っぽい。

 

自分たちの目的のためならば、天皇だろうと人質にとる。

 

12月8日の夜、岩倉は自邸に五藩の代表を集め、王政復古の断行を宣言し

五藩に協力を求めました。

五藩というのは、薩摩、土佐、広島、尾張、福井です。

 

そして12月9日、天皇を臨席させ、王政復古の大号令を発した。

クーデターからすぐ天皇の御前において、三職会議が開かれた。

三職と判断しクーデターによって、設けられた総裁,議定、参与のこと。

 

この会議は慶應3年12月9日に開かれ御所内の小御所で開かれたので

小御所会議と呼ばれます。

この三職会議はもめにもめました。

 

出席者は16歳の明治天皇と皇族、公卿

元尾張藩主     徳川慶勝

前越前福井藩主   松平春嶽

前土佐藩主     山内容堂

薩摩藩主      島津茂久

安芸広島藩世子   浅野茂勲

 

その他に大久保一蔵、後藤象二郎、辻 将曹などが敷居際に陪席を許された。

この時、西郷隆盛は外で警備を担当していたという。

 

 

この会議では山内容堂と岩倉具視の対立でもめました。

山内容堂は尊皇佐幕派です、岩倉は長州の頭に立つ討幕派です。

 

 

この会議には徳川慶喜は出席していません。

それを山内容堂は強く非難しました。

そしてまだ幼い天皇を担いだ権力を私しようとする陰謀であると

断罪したのです。

 

このとき山内容堂は、「幼沖なる天子」という表現を用いたとされます。

岩倉はここをとらえ、「幼沖なる天子とは何事か」と反攻に出たとされる。

そして岩倉は、慶喜が辞官納地を行って誠意を見せることが先決であるという

主張を繰り返します。

 

徳川幕府将軍に対して、辞官納地をそれほど求めるならば

当の本人の慶喜を会議に出席させればいいのに、それを拒否した岩倉

 

核心をついた山内容堂の主張に、松平春嶽も浅野茂勲も徳川慶勝も同調した。

そしてここで会議は休憩に入る。

 

大久保とともに陪席を許されていた薩摩の岩下佐次右衛門がこの経緯を

西郷に伝えます。

その時、西郷は「短刀一本あれば片が付く」ともらしたという。

 

この一言が岩倉の耳に入って、岩倉は浅野に伝え、広島藩の浅野は辻に伝え

辻は後藤に伝え、後藤は主の山内容堂と松平春嶽に伝えたという。

山内容堂が身の危険を感じた時点で、会議の情勢が決したと言える。

 

再開後の会議で慶喜に辞官納地を求めることを誰も反対せず決議しました。

慶喜に辞官納地を求めることを決して、そのまま事が進めば王政復古は成立する。

つまり明治維新が成立したことになるのです。

 

慶喜に辞官納地を求めた小御所会議の時、慶喜は幕府1万とともに二条城にいた。

薩長を中心とする討幕派の兵5千も京都に集結していました。

山内容堂は双方が偶発的に衝突するのを懸念し、朝廷と慶喜に納地の問題は

大名会議を開き、分担割合を決めるなどの提案をし双方はこれを受け入れて

慶喜は松平容保らを伴い大阪へ下った。

 

山内容堂と松平春嶽は、幕末の四賢侯、、、などと言われていますが

ここまでが彼らの限界だったようです。

西郷の一言が国家の行く末を決する小御所会議の方向を左右してしまったのです。

その後、反対派に対し暴力、暗殺、武力恫喝が繰り返され

最終的に薩長政権は、対米英戦争へと突入していくのです。

 

慶喜はさらなる反転攻勢に出ます。

12月16日、大阪城に米英仏蘭プロシャ、イタリアの公使を招集し内政不干渉と

徳川幕府の外交権保持を承認させたのです。

その三日後には、朝廷に対し王政復古の大号令の撤回を要求したのです。

 

ついに朝廷は徳川政権による大政委任の継続を承認したのです。

つまり王政復古の断念です。

すなわち徳川幕藩体制は維持されることになったのです。

 

ここに岩倉と薩長の偽造勅許による討幕と軍事クーデターによる策謀は失敗

つまり明治維新は失敗に終わったのです。

 

小御所会議で決した慶喜の辞官納地も完全に骨抜きにされました。

12月28日、慶喜は朝廷からの「辞官納地の論書」に対する返事を出します。

その内容は

●徳川慶喜の内大臣辞任(前内大臣として処遇する)を認める。

●徳川慶喜が最高執権者として諸大名会議を主宰する。

●諸大名会議で朝廷へ献上する費用の分担割合を取りまとめる。

 

以上のような史実が存在します。

学校教育はこの時点で完全に失敗したと教えるべきです。

 

討幕の勅許を偽造したものの慶喜に大政奉還という先手を打たれ

軍事クーデターを起こして王政復古の大号令を発したもののさらに慶喜の

反撃にあつて徳川幕府計画は挫折した。

 

そこで小御所会議で西郷が漏らした一言「短刀一本あれば片が付く」を

薩長は実行することになります。

直接武力で幕府を攻撃する、、、、つまり戊辰戦争です。

 

 

★赤報隊

 

そして西郷は戊辰戦争決行のため、赤報隊という部隊を組織します。

隊長は相楽総三、西郷は相楽たちに何を命じたのでしょう。

江戸の旗本御家人などの幕臣や佐幕諸藩を挑発することです。

 

 

つまり放火、略奪、強姦、強殺です。

毎晩のように徒党を組んで江戸の商家へ押し入り家人や近隣の住民が惨殺された。

そして必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込む。

 

江戸の市民はこのテロ集団を「薩摩御用盗」と言って恐れた。

夜の江戸市中から人が消えたという。

遂に幕府は庄内藩江戸市中取り締まりを命じる。

 

赤報隊のテロもますます激化、、、、

江戸だけでなく野州、相模甲州にまで拡大、、、、

そしてついに庄内藩屯所に銃撃するに至る。

 

耐えに耐えてきた庄内藩も遂に堪忍袋の緒がキレ庄内藩と幕府は、

三田の薩摩藩邸を砲撃、、、、これが薩摩藩邸焼き討ちです。

赤報隊の江戸での無差別テロの挑発に幕府が乗った。

これが戊辰戦争への直接的な引き金、京都における鳥羽伏見の戦いの始まりです。

 

明治維新の成立について、決定的な道筋をつけたのは赤報隊のテロ活動でした。

赤報隊

一番隊   相楽の昔からの同志たちが中核をなす赤報隊の中心

二番隊   新選組を離脱した御陵衛士が中核をなしている

三番隊   近江出身者が中心となっている主に近江水口藩士です

 

赤報隊は正式の討幕軍の一部隊として、薩長討幕軍の先鋒を務めることになる。

赤報隊は年貢半減を宣伝しながら、東山道を進軍した。

討幕軍も年貢を半減すると公約して、東へ東へと進んだ。

 

このころは各地で一揆が頻発しており、赤報隊の掲げる年貢半減は大いに受け

薩長討幕軍の東進を大いに助けたのです。

しかし薩長の中枢は、赤報隊にたいし口頭では許可したが、文書には残していません。

 

すぐ年貢半減を取り消し、赤報隊がかつてに触れ回ったとして、赤報隊は議官軍だとし

追討したのです。

相楽総三以下、赤報隊の一番隊は慶應4年3月早々、諏訪湖にて処刑されました。

二番隊は京へ戻され新政府に編入

三番隊も桑名で処刑されました。

 

 

相楽たち赤報隊は、維新に失敗しつつあった薩長と岩倉たちに利用され

使い捨てにされただけでした。

彼らが江戸市中で行った蛮行は許しがたいが、彼らは西郷の命をうけ

行った行動でした。

 

 

相楽が処刑された直後、知らせを受けた妻は後を追って自害しました。

相楽はこの時30斎でした。

 

 

知ってはいけない明治維新の真実著原田伊織