感じるということ、これがどんなに大切なことか。私は、つい最近まで感じるということを自分に許していなかったと気づきました。
嫌な感情から自分を守るため、最初は子供ながらに幸せを求めた結果の選択でした。
けれど、それは世の中の美しいものからも感じることに蓋をしてしまっている、ということに気づいたのはいつだろう。30代後半だったかな?
それだけの間なるべく感じないように生きてきたのだもの、それが普通になってしまって、どうやって物事から感じるのかなんて、そもそも考えることではなく、人間はきっと誰でも子供の頃は普通にしていることなのに、考えないと分からなくて、でも考えても分からなくて、そんなしんどい時期が長く続きました。
感じるということは、あらゆる思考、感情、五感から得る感覚に気づき、良し悪しのジャッジをせずにただ感じる、認める、受け入れる、ということ。自分自身と会話をする、ということでもあります。
私の大学院での大恩師がよく言っていました。「人に感じ方を教えることはできない」と。確かに、感じるということはその人それぞれの体験なので、ここをこうやって感じなさい、とか指示をすることは意味のないこと。常に、伝える側は「私はここでこういう感覚を受けます」などと、主体的な表現が必要になるのです。誰一人として同じ感覚を得ることはできない。それを知る由も無い。
私は、長年自分だけの体験をすることを自分に許さずに生きてきました。周りの人(特に目上の人や私よりも経験のある人)の意見や体験を正解とし、それを私の意見としようとしてきました。だから、まず感想を求められても何も言うことが無い。だって誰かの意見を聞かないと何を意見として言って良いのか分からないのだもの。
人の意見を自分の意見として生きていくと、そのうちに自分の本当の気持ちがわからなくなります。自分の内なる声を無視し続けていると、だんだんと聞こえなくなってくるし、心もあまり声を発さなくなってくるのです。そのうちにそれさえも気づかなくなるようになります。
私は、昔感情に蓋をする前に一体どういう風に物事から自由に感じていたのかが思い出せずにいました。それで、まずは何も感じない自分を受け入れました。何も感じない、と感じている、と。
それはしばらく続きましたが、そのうち、何か違う感情や感覚が芽生えてきて、それに気づくようになってきました。
感じることを許す、ということがまずは大きな第一歩だったような気がします。
みなさんもぜひ、自分だけの体験をたくさんして、たくさん感じてください。いい感情も嫌な感情も。