生が絶たれる覚悟の先に | ベトナムから進出:ベトナムのタマヌオイル、ハーブティー、精油

ベトナムから進出:ベトナムのタマヌオイル、ハーブティー、精油

ベトナム、ホーチミンでタマヌ天然ハーブ、生薬を使用した化粧品作り&販売をしている人のブログ。オーガニック、天然、自然派の石鹸、化粧水、乳液、クリームなど。

現在は日本日本帰国をしてベトナムのプロダクトを日本で展開中です

こんにちは。


進捗としましてはだいぶ、仕事+リハビリで仕事が体力仕事なので身体などは疲れていますが精神的にはかなり楽になりました。


日本に帰る前からのブログを眺めていましたがまあ…壮絶と言いますか(汗)


相当、焦燥感と動きたくても動かないもどかしさや苦悩が伺えますね…。


私自身、こんなに長期間に渡って身体を壊した事が無いので告知しますと何回も言いながら良くなっては悪くなりの繰り返しで


本当にこの2年間は辛過ぎました…。


家族にはかなり迷惑を掛けてしまった自覚はあります…本当に強いなぁと思いつつベトナムでもどれだけ助けられていたかや自分一人ではどうする事も出来なかった無力感なども身に沁みています。


ブログ自体はある程度、落ち着い時に忘備録として客観的に眺められるようにその場で書き殴るように必死で書き綴っていましたがそれは正解でした。



前置きが長くなりましたが今、私が思っていることを書いていきます。



①ベトナム生活は充実してたし楽しかったし後悔はしてないがどう転んでもこれ以上、長続きはしてなかった。


②向上心と刹那的な思考と行動は個の能力を向上させる代わりに命を削るトレードオフと言う事が分かる。(※当時はそれを是として壊れるまで止められないからタチが悪い)


③コロナ祈祷(ロックダウン)の影響は精神に甚大な傷跡を残した。


④あまりに苦しい日々を送ったからか今は向上心などよりも如何に安定的に波を起こさないかに注力してる。


⑤非日常の刺激に慣れた感覚は自負心となりそれが環境が変わると枷になることが多い。



①についてはベトナムの生活はハッキリと楽しかったです。

家族も出来ましたし日本に居たら経験出来ない事など貴重な体験を自分もですし子供にも与えられたとは思います。

本当に幸せで充実した日々だったとは今でも思ってます。


ただ…西洋薬やハーブや東洋医学も全てじゃないですが、ある程度は詳しかったのが仇となり散らしながら延命してきた結果として壊れました。


これはそういうのがある無し関係無くかなりの無茶をしていた自覚はあるので速いか遅いかの違いでしかなかったと思います。


しかしながらそのおかげで知り合った方々等も沢山いますのでだから後悔は無いのです。


MIDORIで出逢った様々な方々は私の掛け替えの無い財産です。







②ベトナムの時の私は自分が言うのもなんですが…良く言われる向上心の固まりみたいな感じだったなと…。


そういう姿勢に支持をしてくれてた方も多かったと思いますしそこには情熱や思いもかなり溢れていたと思います。



私はこの自分の夢を実現できるなら命が無くなっても良いというくらいの気概でやっていました…結果、壊れましたが。


ただ、壊れてもやり続けようとしていました。

ここで家存家族の存在が…残された人達がどう思うのか抜け落ちていたのを最近、気が付きました。


私、配偶者に多分、日本に行く前の4ヶ月くらい前でしたかね?


以前にも記載しましたが凄く色んな哀愁や困ったような悟ったような表情をずっとしてたのでこういう事を言ったのです。


「自分はもうホントにダメかもしれないしそうなったら子供は任せた…君はまだ、若いしやり直せる。もしもの時に手続きに不備が無いように離婚手続きをやっておこう。幸せに出来なくて最後まで迷惑かけてごめん…」


今、思えばこれは究極の自己満と言うか…


なんて、馬鹿な事を言ったんだと今はこの発言だけは後悔してます…。


ただ、あの当時は医療が乏しいベトナム。


母が亡くなった直後のコロナ祈祷。


ついには動かなくなった体。


暮らしやすい海外生活…しかし日常を維持出来ない不調に陥った時の恐怖も暮らしやすさに隠れたリスクでした。


自分自身ももう追い詰められるところまで追い詰められて地元にも戻れない。


様々な状況が重なったとは言え刹那的な思考や行動というのは他の事を考えてるようで考えていない危険な思考回路なんですよ…。


言い方を悪くすると自分に酔ってる。


ただ、ここでの配偶者の回答は


「…日本に行こう。私は資金や諸々を調達してくる」


と奔走してくれてベトナムの家族達の助力もあり今はこうやって日本に戻れましたがそれがなかったらかなりの確率で朽ちてたでしょうね。





そして③のロックダウンの影響は…やはり大きかったですね。


3ヶ月以上、封鎖されて外には軍隊や公安が居て出られない。


買い物まで禁止されて日に日に減る食べ物に不安と恐怖を感じた。


半径500m以内で20人以上、コロナで亡くなった。


それ以外でも仕入先の人や知り合いが15人以上、亡くなった。


…ええ。

もう、あんな地獄絵図は見たくありません。


いつもコーヒーを買いに行っていたおっちゃんが居ない。


近くの家族が子供(4歳と7歳)含めて4人、一家全滅。



今でもあの時の話を聞かれてすると動悸がしたり涙が出そうになるので軽いPTSDになってると思います…。


…とまあ、母が亡くなってからこの強烈なコンボでギリギリまで保っていた均衡が完全に崩れてしまったというわけです。

そういう意味でも追い詰められてしまったというわけです。




話は飛んで…なんとか日本に来てからも手続きや子供の事などは誤魔化しながら最後の気力を振り絞って動いていました。


それ以外はまともに動けなかったのに海外に来たばかりなのに献身的に支えてくれたので本当に頭が上がらないです。


日本に戻ってからの1年…良いことも少なからずありましたが早く治さないとと言う焦りもありかなり危ない橋でしたが副作用を度外視で合う薬を探す為に片っ端から試しました。


まずは15キロ以上、痩せ切った体を戻す事。


薬の副作用に耐え切れるだけの身体を戻す事。


隙間の動ける時間で手続き系を終わらせる事。



これ以外は考えられないくらいに必死でした。

副作用で3日くらい起き上がれないでずっと唸ってる事もありました。


人と会う時はなんとか気力でニコニコしてましたが帰ってからはしばらくは頻脈なども出てしばらく話すと具合が悪くなったりも頻繁にありましたね…。


何故、こんな思いをしてまで日本に来て何をしてるんだろう…?


何故、自分だけが母の墓前に立つことすら許されないんだろう…?


身体は治るのだろうか…このままずっと続いたらどうしようか…?


不安、焦燥、絶え間無く襲う三叉神経痛。


ひたすらこんな気持ちだったのを今振り返ったら思い出します。



④については以前のブログにも書いたことと重なりますがまだ様々なリスクがあったりで踏み込めない部分があるのです。


そして、2年間の壮絶な治療の果てに良くはなってきてますが今は


「ベトナムのプロダクトを日本に!!」


みたいなのよりはまずは複雑な手続きも含めて安定した基盤を作って10年間、極限でやっていた海外生活みたいな生活は暫くはなぁ…みたいな。


実は体もリハビリで戻り再び、着手はしましたがベトナムみたいな猛烈な勢いでやると言う事は無いと言う意味です。


子供も学校に馴染み始めて自分もやっと活動できるようになってきて帰ってから私は一年近くほぼ寝たきりでしたので家族もマトモに大阪市内すら連れていけてないんですよ…。


なので、現状は安全ややっとまともに動けるようになったのを噛み締めてる状態ですね。


まあ、ベトナムに居た時の自分からしたら牙を抜かれたみたいでつまらないかもしれませんね。


ただそれは独身だったら今までのスタンスで良いと思いますがいつまでも夢追い人ではいられないし昔は若かったから出来たことも今は段々とできなくなってる現実もあります。


後は日本に戻ってきてからの違和感や苦しんだ末に今、出した答えとしてはやっとシックリ来る言葉があって


言語が通じて文化も理解できる異国


という表現が私にはシックリ来てます。

もう日本しか知らなかった時の自分には戻れないですしそこに戻りたいとも思わない。


でも,双方を知ってるからこそ今までには無かった新しい考えや見方が出来るかもしれない。


この2年にも及ぶ闘病及びにリハビリの期間は


それを見つめ直す時間だったのかなと思えば少し溜飲も下がりました。


リハビリも身体だけではなく感覚が完全に現地寄りになっていた事、


悪く言えば自負心がプライドになり邪魔をする。


それを引き剥がす作業でもありました。


別にどちらが正解とかはありません。


私の場合は子供が学校に通ってちゃんと教育を受けて家族も安定した中で過ごせている。


その生活を維持していく為には現地の感覚や自負心は枷になることが多い。


その結果として日本しか知らなかった時の感覚には戻らないけどそれも受け入れてる。



それが見る人が見たら牙を抜かれたように感じる人も居るかもと言う事です。



ただ、私は家族に命を救われた身で独身だったら朽ちるまでやっていて決して大袈裟ではなく既にこの世にはいなかったかもしれません。


そもそもがベトナムに行くまでは空虚な人生を送っていましたしそれがあれだけ頑張れたのも家族が出来たおかげです。


そのそもそもの前提を忘れて自分の力でやってきたと思いがちなのをこの1年のリハビリの中でかなり深く考えました。


だからこそ今は自分が変わって家族の安定の為にタスクを割かないといけないときなんでしょう。


単身戻ってきたならまだ違ったかもしれませんが家族の存在こそがベトナムの生活の証ですしそこを無かった事には出来ませんしね。


ちょっと愚痴になりますがこちらでもたまに言われるんですよ。


そんなに海外経験があるのに今の仕事は勿体ない!!もっとベトナムの経験を活かせる職をやるべきだ!!


もっと上を目指して日本でも活躍しないと!!




…そういうのはしばらく良いです。


人がどれだけ辛い思いをしながら日本に戻ってそこから更に辛いリハビリをして


成功体験も引き剥がしながら壮絶なリハビリをやってる気持ちは自分にしか分からない。


生き残るとか取り残されるとか煽り続けられて過ごした先に何があるの?


今の私はこう問いたいです。

もう少しリハビリを出来て気力が戻ればそういう風になるかもですね。


まあ、私もベトナムではそういう風にガツガツ思いながら生きていたので気持ちは分かりますけど…。


今は只々、「平穏に過ごせる日々」を過ごしつつ少しずつ、適応していかないといけません。



勘違いしてほしくないのは私はベトナムではあちらに適合できるようにやってましたし根幹は変わっていません。


現地に適応はしても迎合はするな。


これは国に関係無く今でも持ち続けています。

ただ、その際にベトナムの経験や慣習がプライドになり枷になる。



だから、1年掛けてそれを引き剥がす作業を行った。


その結果として厳密な日本人にはもう戻れないですがその中で枷やプライドで弊害になる部分は引き剥がしながら残った感覚を受け入れてる。


今はその段階です。

MIDORIも日本に帰ってすぐに健康体でベトナムの感覚のまま突っ走らなくて結果として今は良かったとまで思っています。




今は平穏な生活をしばらく維持したい事。


様々な極限状態で擦り切ったのでスタートさせる気力を回復させるまでにはもう少し、掛かる事。


長い夏休みで子供に構えてなかった分や学校でしんどい思いをさせた分は構ってあげたい事。




8月8日で日本に帰ってちょうど1年ですがその1年を節目にそこで目処がつくようにやっていきます。


とまあ…1年を振り返ったらこんな感じでした。

これが私の2年近くに渡った闘病の末に考えた結論です。


これからやっと真の意味で日本生活のスタートだと思いますのでまたアクションは掛けていきます。

よろしくお願い致します。