「ライ麦畑でつかまえて」の村上訳です。野崎訳から40年ぶりの新訳。
一時期サリンジャーにはまって、「フラニートゾーイー」「ナインストーリーズ」「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-」と大体は読破しました。「ライ麦畑でつかまえて」も、野崎訳で既に一回読んだし、英語の原書も一度よみました(スラング多すぎてよくわかんなかったけど)。
カタルシスとかを得られる小説では全然ないですが、その辺にある日常をとんでもなく深刻に深遠にさせる力を持った作品です。ストーリーだけ追うような読み方をすると、エンターテイメント小説に慣れている人にはだいぶものたりないと思うんですが、こういう類の本は言葉のリズムと空気を感じることに価値があると個人的には思うので、最後のどんでん返しとか涙のラストシーンとか期待するとかなりがっかりする事でしょう。
ただ、独特の空気や文体のリズムは本当に稀有なものだと思います。そういう側面からいうととてもレベルの高い作家だと思います。
さて、「ライ麦畑でつかまえて」ですが、一言でいうと「顕微鏡の目を持った男の子」の話です。
人が気にしないような細かい偽善やエゴが、この男の子の目にはどんどん飛び込んできて、それが気になって前に進めない。たとえば、私たちが気にしない机の上の小さなごみとかあるいは細菌やばい菌みたいなものが、見えてしまう。見えてしまうからそれをいちいち取り除かなくては気持ち悪くなってしまう。それがこの少年の不幸だと思う。割とおんなじような属性の人は私の周りにもいます。
こういう些細なエゴや偽善に敏感なあまり結局自意識のどんずまりにはまって身動きが取れなくなる、悲しい話だと思います。
けれど、それをどう乗り越えるのかはこの本は何も教えてくれません。サリンジャー氏は、ある特定の(たいていは少数派の)人間が遭遇するもやもやと言葉にできない精神的な問題を鮮やかに切り取ってくれはするのですが、解決のためのヒントを何一つ示してくれません。そういった文学的責任的なものを放棄したスタンスをよしとするかどうかで、この本の評価は分かれてくるのでしょう。
個人的には、「もやもやと言葉にできない精神的な問題を鮮やかに切り取る」ということに価値があり、それに対する回答はむしろ恐らく出すべきではないと思うので、サリンジャーさんの文学的に無責任なスタンスには結構賛同してます。答えは自分で血を流して掴み取るものです。