7月3日から20年ぶりに新札が発行されます。(現在のお札も永久に使えます)

 

 1万円札の渋沢栄一は「日本資本主義の父」として、NHK大河ドラマの主人公にもなった超有名人。5千円札の津田梅子も明治初めの初の女子留学生、女子教育の祖として教科書に載ったり、ドラマ化もされたりする有名人。

 それに引きかえ、千円札の北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)は、私が渋沢栄一、津田梅子と同様、尊敬する人物ですが、今ひとつ、世間になじみがありません。

 北里の弟子にあたる野口英世の方が有名で、先にお札の顔になってしまいました。

 

 北里は幕末に生まれ、昭和初期に没し(1853~1931)、「近代日本医学の父」とも呼ばれる細菌学者で、日本人初のノーベル賞を受賞してもおかしくなかった人物です。この時代の医学は伝染病の予防が第一でした。

 現在の東京大学医学部を卒業して、内務省衛生局に勤務(後藤新平が上司)した後、ドイツに留学、結核菌やコレラ菌の発見で知られるコッホの研究室に入ります。

 ここで、世界で初めて破傷風(はしょうふう)菌の純粋培養に成功、その抗毒素(免疫体)も発見し、さらに免疫血清療法を確立するという偉業を達成しました。

 

 私が彼を尊敬してやまないのは、6年間の留学を終えた際の行動ゆえです。

 当時、細菌学では、ベルリン大学のコッホ教室とフランスのパスツール研究所が双璧をなしていましたが、英国のケンブリッジ大学が、「独仏に負けない細菌学研究所を新設したい。その所長として北里氏を迎えたい」と白羽の矢を立てました。

 ところが、北里氏は、「帰国し、ドイツで修得した医学によって、結核に苦しむ日本人を治療したい」と、この申し出を断ったのです。

 まだ日清戦争も始まらない、不平等条約の改正交渉も進んでいない明治の半ばで、日本はヨーロッパに比べてはるかに遅れた国だと思われていた時代です。その日本人を研究所長として迎えたいというケンブリッジ大学の太っ腹にも驚きますが、高給とすばらしい研究環境、生活環境に目もくれず、「遅れた日本」に戻ることを即答した北里の決断に拍手したくなります。

 その後、衛生事業の視察を兼ねて、アメリカ経由で帰国する途上、ペンシルバニア大学や米国各地の先進的な病院から伝染病研究機関の長を提示され招かれますが、ことごとく断って日本に戻ったのです。

 

 私は、政治家としてアフリカなどの発展途上国を見るなかで、「こうした国の優秀な若者たちの多くが英国、フランスなど旧宗主国を中心とした欧米の国々に留学して、医師の資格や文系の博士号を取得した後、母国に帰らない例が多いことが残念だ。明治の日本が急速に先進国に追いついたのは、北里のような留学生が日本に戻り、発展に尽力したからで、そこが違う」と考えてきました。

 北里氏は、「官費留学生として5年間、さらに結核治療法の研究を究めるようにと(明治)天皇から下賜金を賜り、留学期間を1年間延長してもらった」恩に報いなければと思ったのです。

 

 ただ、それほどの思いで戻ってきた「世界の北里」は、日本では冷たい風にさらされます。内務省はすでに免官となっており、身分の保障はなく、また、内務省と文部省の対立や、医学上の見解の相違による東大医学部教授陣との軋轢などから、念願の伝染病研究所設立に国からの支援はありませんでした。福沢諭吉らの応援により私立伝染病研究所や、日本で最初の結核療養所を創立しました。

 その一方で、香港に調査へ出向いてペスト菌を発見するなど、学問的業績も挙げ続けました。

 大正時代に入ってからは、恩賜財団済生会病院や慶應義塾大学の医学科を創設、さらに東京府医師会(当時)や日本医師会を設立し初代会長に就任、といった具合に、順調に力を発揮することができるようになりました。

 

 なお、学校法人化した北里研究所が持つ北里大学の名誉教授、大村智氏が2015年、ノーベル賞(生理学・医学)を受賞しました。受賞後、国会の表彰でお目にかかった際、「北里先生」の話で盛り上がりました。

 

 私が医学史に関心を持つようになったのは、落選時代(民主党政権時)、東京医療保健大学の教養課程で教える仕事に就いたことがきっかけです。

 

 

北里研究所 北里柴三郎記念室

 

画像は国立印刷局ホームページより