ウクライナやガザの民間人被害に多くの日本人が心を痛めています。

 しかし、日本でも、79年前の昭和20年(1945年)全国で130以上の都市に米軍が空襲を行い、50万人を超す人々(人数は不明、大半が民間人)が亡くなったと推定されています。(国内外、軍人と民間人を合わせると約300万人)

 負傷して、戦火により身体障害者となり、その後遺症に戦後苦しみ続けた方々に、特別給付金(お見舞金の性格の一時金)を支給するための立法を目指す超党派の「空襲議連」(平沢勝栄会長)の会長代行兼事務局長に就きました。

 

 17日開いた空襲議連の総会では、全国空襲被害者連絡協議会の3人の方々から、いずれも悲惨な体験を伺いました。

 大阪から来て下さった安野(あんの)輝子さん(84)は、6歳の幼稚園児だった昭和20年7月、鹿児島県川内市で米軍に左足を吹き飛ばされました。病院に運ばれましたが、赤チンを塗っただけで、その夜は出血多量で死線をさまよいました。

「きっとトカゲのしっぽのように生えてくる、と願ったが、生えてこなかった」。

 母の背中におわれて小学校の入学式へ。その後、桶屋のおじさんが作ってくれた松葉杖で、滑ったり転んだりしながら小学校に通ったが、中学校は遠くて通えませんでした。

 母の出身地、大阪に転居し、義務教育も終えていない身で生きていくため、洋裁を習い、「縫うことに明け暮れて生きてきました」と語りました。

 「私が生きているうちに法律を作ってね」と繰り返す安野さんを抱きしめ、「今国会に法案を出せるようがんばりますから」と答えました。

 

 吉田由美子さん・全国空襲被害者連絡協議会共同代表(82)は、私の地元、墨田区業平生まれ。(当時は本所区業平橋)

1時間半で10万人が亡くなった昭和20年3月10日の東京大空襲で両親と妹を亡くし、3歳で孤児となりました。

 戦災孤児にはよくあったことですが、父方の親せきの家で「お前が死んでいたら育てなくてすんだんだよ」と言われて、働かされ、暴力を振るわれ続け、恐怖心から無表情となり、励ましてくれる先生がいる学校だけが息抜きの場所でした、と話しました。

自身は戦争で外傷を受けなかったものの、「私たちにほんとうの戦後を迎えさせてください」と訴えました。

 

 深川生まれの河合節子さん(85)も、国民学校1年生になる直前の東京大空襲で母と弟2人を失いました。父が大やけどを負い、戦後も人が振り向くほどの顔のけがに苦しみながら河合さんを育ててくれたそうです。

 戦時中には「防空法」という法律があり、空襲に遭っても逃げずにとどまり、消火にあたることが義務付けられていたため被害が広がったことを指摘しましたが、私もその通りだと考えます。

 

 議連ではすでに3年前「特定戦災障害者等に対する特別給付金の支給等に関する法律案(仮称)」の要綱案を作っています。

①   昭和16年12月8日から昭和20年9月7日までの間に日本で空襲や船舶からの砲撃により

②   負傷し障害者手帳を持つ人、外貌に著しい醜状を残す人、心理的外傷などにより精神疾患を持つ人に

③   申請により、特別給付金50万円を支給する。

④   本人限りで、遺族が請求することはできない。

が主な内容です。

 この時点での推定では、対象者は3千数百人。その後、間に合わなかった人たちのことを考えると、現在は2千人台かもしれません。たいした財政支出にはなりません。

 自治体では、すでに愛知県、名古屋市、浜松市の例があります。

 愛知県は、昭和56年度に一度、見舞金として5万円を支給しました。この時、名古屋市は2万5千人を上乗せ支給。

 その後、名古屋市では、市内の戦災で障害を負った方々に年金を支給する「名古屋市民間戦災傷害者援護見舞金」事業を平成22年度に開始しました。事業開始時は年額2万6000円でしたが、現在は年額10万円に増額されています。当初は95人への支給でしたが、令和5年では33人にまで減っています。

 

 また、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツといった国々では、空襲等で被害にあった民間人を対象とする補償制度を、法律で定めています。

 

 この程度のことがなかなか進まないのは、「戦後処理はすでに終わっている」「当時は民間人も含めすべての国民が戦争の犠牲を被った」という認識が政府や自民党議員の一部にあるためです。

 軍人恩給のほか、傷痍軍人やシベリア抑留者に対しては戦後、順次補償制度が整えられ、広島、長崎の被爆者に対しては特別法がつくられました。

 

 一般の空襲被害者への給付金については、国会でたびたび質問され、安倍総理が「立法府において、もちろん行政ということもあるかもしれないが、まさにみんなで考えていく問題ではないか」(平成27年)、菅総理が「議員立法が検討中の段階にあるものと承知しており、現段階においては政府としてその動きを見守っていきたい」(令和3年)、岸田総理が「超党派の議員連盟において…この議員立法での議論も見守りながら政府としても考えていきたい」(令和4年)と答弁しています。

 

 私はここで戦争、そして空襲の責任や加害者が誰かという議論をするつもりはありません。ですから「補償」という言葉は用いません。

 ただ、大変な痛みを持って戦後79年を送ってこられた方々に「お見舞い」として特別給付金を支給したい。

 同時に、日本のどこに、どれだけの爆撃が行われ、それぞれどれだけの人が死傷したのか、できる限りの調査を国が行い、歴史の記録を残すべきです。法案にはそのことも書かれています。

 

 平成25年、国立公文書館が「空襲の記録―全国主要都市戦災概況図―」として、北海道から鹿児島県まで約130都市分の戦災概況図を展示しましたが、被災者の数はわかりません。昭和20年12月に、第一復員省が、復員軍人のために編集した資料を使っています。

 東京新聞の2015年8月2日サンデー版は、「東京大空襲・戦災資料センター」の数字を引用して、犠牲者の数を41万3千人超としています(郷土史家の研究をもとに、昭和20年末までに亡くなった人の集計)が、実際のところは、全容を誰も把握できていません。

 

今でも遅すぎるくらいですが、戦後80年を前に、そして、ウクライナやガザの映像が日本国民の関心を集めている今を失すると、立法の可能性は絶望的に薄れると私は危惧しています。