全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)の初の東東京代表となった共栄学園(葛飾区)のチームには、隣接する墨田区や江戸川区の中学出身者が数多くいます。

 墨田区は桜堤中3人、寺島中1人、そして新たに私の選挙区となった江戸川区北部は上一色中3人、小岩二中、小岩五中、小松川一中、小松川三中が各1人の合わせて11人が20人のベンチ入りする選手(8月3日現在)に入っています。

 東東京大会の決勝戦では、エースの茂呂潤乃介選手(上一色中)の粘り強いピッチングと、横田優生選手(上一色中)の打撃での活躍が目立ちました。

 私は長く墨田区少年野球連盟顧問を務めていますが、「鐘ヶ淵イーグルス」や「堤若草」出身の子たちが、甲子園のグラウンドに立つのかと思うとワクワクします。

 

 

 私はかつて、朝日新聞宮崎支局の2年目の記者として甲子園球場で夏1回、春1回仕事をした経験があります。特に夏は朝日が主催者ですから、専任の担当者を決め、力を入れます。1981年(昭和56年)の夏には、初出場の県立都城商業高校のチームと同じ宿舎に泊まり込み、地方版向けの記事を「宿舎到着」「初練習」「対戦相手決まる」から始まり、すべての試合をバックネット裏の上段の非常に見やすい席から見つめ、書きまくりました。

 都城商の素朴な選手たち(もちろん全員、地元出身)は弟のようにかわいい存在で、朝の散歩から始まり、3食を含めすべての時間を彼らと過ごし、ボーナスからたびたび差し入れもしました。全員の性格も把握し、記事に活かしました。

 甲子園で都城商は2回戦から登場し、北北海道の帯広工に6-1で勝利、3回戦の長野の岡谷工戦では延長12回、後にプロ入りする主力打者のサヨナラホームランで勝ち、ベスト8に進みました。準々決勝では熊本の鎮西に敗れましたが、「隣県熊本の取材応援」として準決勝まで残ることができました。

 名古屋電気(現・愛工大名電)の工藤公康投手がノーヒットノーランを達成した年でした。

 翌年春の選抜高校野球(毎日新聞主催)は、宮崎県から延岡商が出場し、私も出張しましたが、開会式直後の試合で高知商に敗れ、あっという間に終わってしまいました。

 

 私は大学時代に応援部でバトントワラーズをつくり、東京六大学野球では神宮球場で負けの多い東大野球部の応援をして過ごしました。そのころは客席を向いて踊っていたので、野球の知識が乏しいまま甲子園に取材に行き、都城商の選手たちに教えてもらいました。その代わり、宿舎では英語や国語の宿題を持ち出す選手たちに勉強を教えてあげ、面目を保ったものでした。入社以来「公平公正な記事を書け」と言われ続けましたが、高校野球だけは、スポーツ面が「非力」と批判した選手でも、地方版では愛情を持って感動的に仕立てることが基本でした。

 

 私にとって青春後半の輝く一コマだった甲子園球場。

 共栄学園の選手の皆さんが1日でも長くいられるよう、各試合を大切に戦い、思い出をたくさん作ってください!

 まずは初日の1回戦、強豪の聖光学院相手にがんばってください。