3月10日、秋篠宮皇嗣同妃両殿下ご臨席のもと、墨田区・横網の東京都慰霊堂で行われた春季慰霊大法要に参列しました。小池百合子東京都知事、山本亨墨田区長も参列し、堂内で焼香しました。

 

 

 アジア・太平洋戦争末期の昭和20年3月10日未明、私の地元 墨田区を中心とする東京・下町は、米軍の焼夷弾による無差別攻撃で、3時間足らずの間に10万人近い人が犠牲となったのです。

 

9日夜、いったん出された空襲警報が解除され、人々がやれやれとしかし、寝間着には着替えず、国民服で靴をはいたまま床についたあと、10日午前0時7分にB29、325機による焼夷弾投下が始まりました。約2時間47分。北西からの風が強く隅田川を火がわたってくるほどでした。

 

私は5日開かれた、「東京大空襲とすみだ」の上映会にも参加しました。戦後70年の年(2015年)に制作された映像のダイジェスト版で、空襲当時10代だった6人の方のお話から、人間の弱さや醜さを含め、私がこれまで知らなかった生々しい話がまだまだあると痛感しました。

 

 最大のショックは、当時、防空壕に女性を押し込んで性暴力を働く事件があったこと。「私はまだ子どもだったから詳しく聞かされなかったけれど、『床屋さんの娘さんが、防空壕でひどいことをされ、毛染め薬を飲んで死んだ(自殺した)』」という女性の話が胸に刺さりました。

 

 「東向島の家から水戸街道に出たら、火が川のように流れて行った。戻ったら家は焼けていなかったが、敷地に木の札が立てられ、『〇〇家所有』と他人の名前が書かれていた。

 周辺の焼け跡にも、あちこち、そのような立札があった。きっと数か月たって一家が全滅しているのを確認したら、自分のものにしようと考えたのだろう。空襲で大変な思いをしている人がいるのに、こういうことをやるのかって、子ども心にも嫌な気持ちになりました」と男性が語りました。

 この時、燃え残った家は、結局、5月25日の山の手空襲の際に1機飛んできた米軍機に焼かれたそうです。

 

 別の女性は、「空襲が始まったとき、母と妹はすでに小学校に逃げていました。私は姉と一緒にまだ家にいた。父がダットサンで帰ってきたので『逃げろ』と言うのかと思ったら、『空襲がひどくならないうちは家に残れ。泥棒が来ないように』と言い残して警防団の仕事で出て行ってしまいました」。当時は火事場ならぬ、被災した家にカネ目のものがないかあさる泥棒がいたのです。「父の姿を見たのはこれが最後でした」と続けました。

 

 話がそれますが、私の母の話で、かつて、女学校1年の7月末に地方都市での空襲で家を焼かれました。

母(故人)が「家に戻ったら、たくさんあった庭石が、重くて立派な高価なものから順番になくなっていた。みんなお腹がすいていた時代に、どうやって抱えて行ったのだろう」と話していた意味がやっとわかりました。

母は庭石には未練は無かったようでしたが、「B29を操縦していたパイロットの顔まで見えた。あと1か月早く戦争が終わっていたら焼け出されなかったのに」と何度も繰り返していました。

 

体に水をかけ、火の中を逃げまわった人たちは、多くの人が燃えていく様や、死体に出会います。

複数の証言者から出た話がいくつかありました。

ひとつは「風で広がった女性の髪の毛がパーっと燃え、見る間に丸坊主。『危ない』ってみんなで素手で消してあげた。そのときは手がやけどするとかそんなこと考える間もなかった」

そして、母親と赤ちゃんの目撃談。

「おんぶしている赤ちゃんがすでに死んでいるのもわからず、お母さんが『がんばってね。しっかりつかまってね』と話しかけていました」

「校門でお母さんが正座したまま赤ちゃんを見つめていた。真っ黒焦げで。後日、PTA会長としてそこをしばしば通るようになりましたが、脂の跡がしっかり残っていました。脂の跡の意味を知らない人が多かった」

「空襲の翌朝、両国橋から下を見ると、赤ちゃんを背負ったお母さんがものすごい顔をして橋にしがみついて死んでいました」

「赤ちゃんを抱えて、隅田川の中から、まさに沈みそうなお母さんの、(岸辺にいた)私を見つめたすごい目が忘れられません」という具合です。

 

 証言は「マネキン人形のような」という表現がしばしば登場しましたが、これが2つの様相を示しています。

 「ピンク色の素裸のパンパンに膨れたマネキンのような遺体の山」これは、服が焼けて火災旋風で舞い上がり、みんな丸裸になるようです。

 一方、「マネキン人形を焦がしたような真っ黒な塊。それが死体でした」焼き尽くされたのでしょう。

 

 戦火から逃れるギリギリの場面での自分の行為が心の傷になっている人も少なくありません。

 「(小学校に)入れて!と叫んで押し寄せたら『ムリだ』と断られた。それでもなんとかして入ったら、自分もあとから来る人には『もう入れません』と断っていました」

 「逃げ込んだ小屋で助かった。出たところ、足元にボロボロの様子の女の人がいて、助けを求めたのか、私の足をつかもうとした。思わず引っ込めてしまった。その女の人の顔は忘れられません」

 「人間は恐ろしいもので、20も30も死体を見ると平気になってしまう」

「逃げるとき、死体で踏み場もないような状態だった。いくつもいくつも乗り越えて・・・」

 10代で恐ろしい体験をした人たちは「防空壕で同級生と一緒だった。その後、ずっと同じ町に住んできたけれど、彼も私も、この時のことはまったく語らなかった」―80代半ばになって初めてインタビューに答えた元町会長の言葉でした。

 

映像を制作したのは「スミダSGEP」代表の多田井利房さん。昭和19年、墨田区向島生まれ。65歳で退職した後、戦後70年を機に同会を立ち上げ、区内17人の空襲体験者の証言をまとめた映像を制作しました。区の助成を受け、これまで本所地域プラザBIGSHIPや、みどりコミュニティセンター、ユートリヤなどで上映会を行い、新聞各紙に大きく取り上げられたこともありました。

 

 

スミダSGEPでは映像「東京大空襲とすみだ」(上映時間90分、ダイジェスト版45分)を貸し出しています。お問い合わせは多田井さん(090-4004-2178)まで。