24日から28日までフィリピンへ渡航します。

人口1億904万人(2020年)、平均年齢は24歳と若く、人口増も著しいことから、10年以内に日本の人口を上回るのは確実です。このほか、1000万人にのぼる海外出稼ぎ労働者の送金が経済を支えています。日本の船員の7割を占め、また、多くの介護人材が日本で働いています。

 

今年2月、小売り自由化法や外国投資法を改正し、外資規制が緩和されたため、日本の経済界からも投資先として期待されています。タイやベトナムの人件費はかなり上昇し、かつて期待されたミャンマーは軍政下で日本企業が撤退しているからです。台湾のすぐ南、日本から空路4、5時間という近さも魅力になっています。

この11月には三越もオープンし、人気を呼んでいます。

 

 

 私は30年以上前、朝日新聞経済部の記者時代、フィリピンの経済特区を視察したことがあります。日本アセアンセンターの招待による出張で、フィリピン、インドネシア、シンガポールの「日本企業の誘致ぶり」を見て回ったのです。

 その後、シンガポールは1人当たりのGDPが日本を上回る経済先進国となり、インドネシアについては、この9年の間に2回訪問して、発展を目のあたりにしました。今回はマニラの変貌ぶりを見たいと思います。

 

 日本からフィリピンへのODAは累計額で、インド、バングラデシュに次いで3位です。

最近の大型案件としては、日本で建造した巡視船が、ことし6月までに97m級が2隻、44m級が10隻就役しました。

また、今年10月、マルコス大統領が式典に出席して着工して地下鉄工事が始まったばかりです。

今回は、日本のODAでつくられたMRT(都市鉄道)などを視察します。

 

なお、日本の防衛装備で、完成品を外国に売却した唯一の事例は、三菱電機がフィリピンに納入した警戒管制レーダー4基だけです。これも見たかったのですが、マニラから離れた場所に配備されているため、かないません。

 

フィリピンで旧日本軍(軍人・軍属等)はアジア・太平洋戦争で52万人の犠牲者(戦死、病死、餓死)を出しましたが、これはアジア・太平洋戦争で戦場となった各国での犠牲者のうち最大です。なんと中国(47万人)を上回っています。(厚生労働省の資料から。支那事変⦅1937年7月7日⦆以降の累計)

 

フィリピン人も110万人(軍人、ゲリラ、市民等)が犠牲になりました。

 

これらのことは意外にも知られていません。英国領だったミャンマーやマレーシア、オランダ領だったインドネシアなどと異なり、フィリピンは宗主国である米国がすでに「1946年独立」を約束していたこともあり、フィリピン軍やゲリラは米軍と一緒になって徹底して日本と戦ったのです。マニラなどでは日本軍による大虐殺の厳しい現実もあります。

 

戦後の日本においてGHQ最高司令官として権威を振るったマッカーサー元帥は、開戦時の在フィリピン米陸軍のトップで、初期の戦いを有利に進めた日本軍に対し、「I shall return」と言い残してオーストラリアに逃げましたが、昭和19年末に圧倒的な戦力で日本統治下のフィリピンを攻めて再上陸。日本兵は敗残兵として山中に追いやられたのでした。

フィリピン全土に戦争の跡は多くありますが、私はコレヒドール島という、最初は日本軍が米・フィリピン軍の陣地を突破し、後に奪還された地に行きます。

 

戦後、国内では極東軍事裁判の結果、東条英機元首相らA級戦犯らが絞首刑となりましたが、フィリピンでも「マニラ軍事裁判」が行われ、虐殺行為などの罪でB級C級戦犯を含め363人が起訴、148人が死刑判決を受け、彼らはモンテンルパ収容所に収容されました。

山下奉文大将や本間雅晴中将をはじめ10数人は実際に処刑されましたが、モンテンルパの受刑者の悲愁を歌った渡辺はま子の「あゝモンテンルパの夜は更けて」が大ヒットしたことから、当時のキリノ大統領が日本の戦後賠償に悪影響を及ぼさないよう、残っていた収容者105人全員に特赦を与え、1953年(昭和28年)帰国を許しました。

 

モンテンルパ収容所と、マニラにある「フィリピン人無名戦士の墓」をお参りする予定です。

 

神風特別攻撃隊の第1号はフィリピン・レイテ湾に向けて出撃しました。彼の地も訪れたかったのですが、マニラから1泊する必要があり、断念しました。