衆議院本会議場で、演説を聴きながら、感動で涙が止まらないという珍しい経験をしました。

 野田佳彦元総理が行った安倍晋三元総理の追悼演説が、真心あふれる、素晴らしいものだったからです。

 

 「私は、前任者として、あなたに首相のバトンを渡した当人であります。我が国の憲政史には101代64名の首相が名を連ねます。先人たちが味わってきた『重圧』と『孤独』を我が身に体したことのある一人として、あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠をささげたい」

と語ったあと、平成5年7月の国会議員としてのスタートを振り返り、

「私も、同期当選です。初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明に覚えています。そこには、フラッシュの閃光を浴びながら、インタビューに答えるあなたの姿がありました。私には、その輝きがただ、まぶしく見えるばかりでした」と2人の生い立ちの違いを述べました。

 

 1回目の総理退陣後の安倍さんについて

「あなたは、そこで心折れ、諦めてしまうことはありませんでした。

挫折から学ぶ力とどん底から上がっていく執念で、あなたは、人間として、政治家として、より大きく成長を遂げていくのであります。

かつて『再チャレンジ』という言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。ここに、あなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか」と評価しました。

 

 民主党政権を率いた野田総理と自民党総裁として復活した安倍さんは、再び国会で対峙します。

「最も鮮烈な印象を残すのは、平成24年11月14日の党首討論でした。

私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、衆院の解散期日を明言しました。あなたの少し驚いたような表情。その後の丁々発止。それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。それは、与党と野党第1党の党首同士が、互いの持てるものすべてを賭けた、火花散らす真剣勝負であったからです」

 

 この直後の選挙で自民・公明政権が復活し、私も国会に戻ることができました。

 

 追悼演説では、人知れぬ、2人だけのエピソードも明かされました。

「忘れもしない、平成24年12月26日のことです。解散総選挙に敗れ、敗軍の将となった私は、皇居で、あなたの親任式に、前首相として立ち会いました。

 勝者と敗者の二人だけが同室となれば、シーンと静まりかえって、気まずい沈黙だけが支配します。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんの方でした。あなたは私のすぐ隣に歩み寄り、『お疲れさまでした』と明るい声で話しかけてこられたのです。

『野田さんは安定感がありましたよ』

『あの『ねじれ国会』でよく頑張り抜きましたね』

『自分は5年で返り咲きました。あなたにも、いずれ、そういう日がやって来ますよ』

 温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです。その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした」

 安倍さんの優しさ、人柄を知る私は、その情景が目に浮かぶようでした。

 

 でも、慰められた側の野田さんの心情はいかばかりだったのか、かえって、恥ずかしく、いらだちを覚えたのではないか――

私のそんな疑問への答えは、野田さんの次の言葉にありました。

「残念ながら、その時の私にはあなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。でも、今なら分かる気がします。安倍さんのあの時の優しさが、どこから注ぎ込まれてきたのかを。

第1次政権の終わりに、あなたは入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさに鞭打って、福田康夫新首相の親任式に駆けつけました。わずか1年で辞任を余儀なくされたことは、誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。あなたもまた、絶望に沈む心で、控室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね」

 

 さらに、野田さんは、自分の胸の内の大きな後悔を吐露しました。

「安倍さん。あなたには、謝らなければならないことがあります。

それは、平成24年暮れの選挙戦、私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。

『総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でおなかが痛くなってはダメだ』

私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、聴衆の前で、そんな言葉を口走ってしまいました。他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさをやゆすることは許されません。語るも恥ずかしい、大失言です。

謝罪の機会を持てぬまま、時が過ぎていったのは、永遠の後悔です。いま改めて、天上のあなたに、深く、深くおわびを申し上げます」

 

 野田さんは、安倍さんの外交手腕をたたえました。

「首脳外交の主役として特筆すべきことは、全くタイプの異なる2人の米国大統領と親密な関係を取り結んだことです。

理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、被爆者との対話を実現に導く。かたや、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。

 

 あなたに、日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。ただ、それだけではなかった。あなたには、人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません」

 

 野田元総理は「あなたが後任の首相となってから、一度だけ首相公邸の一室で、ひそかにお会いしたことがありましたね」と平成29年1月20日の夜のことを語り始めました。

 

 天皇陛下の前年の「おことば」を受けて、生前退位に向けて、どのように進めるか野党の政治家と本音の話をする相手として、安倍さんは野田さんを選んだのです。

 

「二人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、1時間あまり、語らいました。お互いの立場は大きく異なりましたが、腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。

そして『政争の具にしてはならない。国論を二分することのないよう、立法府の総意を作るべきだ』という点で意見が一致したのです。国論が大きく分かれる重要課題は、政府だけで決めきるのではなく、国会で各党が関与した形で協議を進める。それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした」

 

 この話し合いを通じ、野田さんは「私が目の前で対峙した安倍晋三という政治家は、確固たる主義主張を持ちながらも、合意して前に進めていくためであれば、大きな構えで物事を捉え、飲み込むべきことは飲み込む。冷静沈着なリアリストとして、柔軟な一面を併せ持っておられました」という感想を持ちました。

 

「再び、この議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった」

 

 そして、演説は最高潮に達します。

「勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。耐え難き寂寞の念だけが胸を締め付けます」

 

 野田元総理は、よくぞ、この追悼演説を引き受けてくださったと、私は心から感謝しました。

 あの平成24年の党首討論で解散を明言し、それを受けた選挙で民主党は惨敗し、政権を失いました。当然、党内ではいろんなことを言う人がいたでしょう。9月の安倍さんの国葬儀に出席したことについても批判する議員がいたほどでした。

 

 しかし、野田佳彦さんという元総理大臣が、この追悼演説の役割を担ったのは、そして自分の街頭演説の「恥」までさらしたのは、最後に2つのことを私たち議員一同に伝えたかったからかもしれません。

 

 ひとつは、

「長く国家のかじ取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に、永遠に立ち続けなければならない運命(さだめ)です。

安倍晋三とはいったい、何者であったのか。あなたがこの国に残したものは何だったのか。

国の宰相としてあなたが残した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして、問い続けたい。」

 

 そして、「最後に議員各位に訴えます」と弁をふるいました。

「政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命がかかっています。暴力にひるまず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。

民主主義の基である、自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。真摯な言葉で、建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育てあげていこうではありませんか。

こうした誓いこそが、マイクを握りながら、不意の凶弾に斃れた故人へ、私たち国会議員が捧げられる、何よりの追悼の誠である」と。