まもなく10月14日は、「鉄道の日」。ことしは開業150年に当たります。
 「明治5年、新橋、横浜間鉄道開通」——歴史年表ではたった1行ですが、そこには、多くのドラマがありました。
 1872年10月14日(太陽暦)午前10時、新橋停車場(といっても、今の汐留に当たる場所)を出発した、蒸気機関車プラス9車両は、わずか53分で29km先の横浜停車場(現在の桜木町駅)に到着し、そこで盛大な祝賀式典が催されました。同じ車両がUターンし、正午に新橋に向けて帰路につきました。

 1号車、2号車は天皇を守る近衛兵が乗り、3号車には、和装姿の明治天皇や公家の三条実美太政官が乗車。明治天皇の隣には鉄道建設の現場で指揮をとり、後に「鉄道の父」と呼ばれた井上勝(まさる)鉄道頭(てつどうのかみ)が地図を広げ、説明役を務めました。
 ちなみに4号車には鉄道建設を推進した大隈重信と大反対だった西郷隆盛が同乗。
 ほかに板垣退助、勝海舟、山県有朋、渋沢栄一ら、またアメリカ、イタリア、オーストリア、スペイン、フランス、イギリスなどの公使(当時、大使の職はなかった)も招かれました。
 開業日の様子は、歌川広重(3代)らが錦絵に描きました。新橋停車場は和服が多く、開港地の横浜停車場は洋装が多いのが特徴です。

歌川広重(三代)の「東京汐留鉄道御開業祭礼図」

 

歌川広重(三代)の「横浜海岸鉄道蒸気車図」

 これまで新橋―横浜間は徒歩で1日がかり、あるいは馬車や蒸気船でも半日かかりましたから、片道53分というのは、画期的な出来事でした。新橋、横浜どちらの駅も大勢の見物客が詰めかけました。

 機関車も線路も英国製、機関士も英国人でした。ただ、中国やインドなど他のアジアの国々と違い、経営権は日本政府がしっかり握っていました。

開業当初使われた1号機関車の模型

 実は、本開業の前に、同年5月(太陽暦6月)から、品川―横浜間で先行仮営業が始まっていました。これがわずか35分!途中駅が少なかったとはいえ、現在の京浜東北線、品川―桜木町間が32分であることを考えると、驚嘆します。

 東京遷都、版籍奉還、箱館五稜郭の戦いを経て、新政府が東京を首都として日本の統治を確立したのは明治2年のことですから、その3年後に、国民が誰も見たことのなかった「汽車が鉄道を走る!」というのは、政治の動きとしてはすごい早さです。

 鉄道建設を推進したのが大隈重信と伊藤博文。西郷の反対理由は「日本を取り巻く国際情勢を考えると、今は、軍備の充実が最重要。西洋かぶれの鉄道なんかに莫大なお金を費やしている場合ではない」というものでした(もっとも、鉄道は、兵士や物資を大量輸送することができ、軍事的にも重要な役割を担う存在となっていくのですが)。
 大隈と伊藤が最高実力者だった、岩倉具視を味方につけ、明治2年12月、建設が決まりました。井上勝は幕末に伊藤らとともに英国に密航留学した「長州ファイブ」の1人で、鉄道技術を学んだ経験があり、責任者を命じられました。

「鉄道の父」井上勝の像 JR東京駅前


 岩倉と伊藤はこのころ、米国と欧州をまわる岩倉使節団として海外にいたため、開業日のこの列車には乗っていません。

 品川―横浜間が先行したのは、新橋―品川が難工事だったためです。旧薩摩藩邸が品川近くの高輪にあり、「測量も許さん!」と息まき、用地を取得することができなかったことなどから、品川沖の海の上に堤防をつくり、「海上築堤」方式(2.7km)を取りました。
 品川再開発の工事中、2019年から翌年にかけて、「高輪築堤跡」が発掘されました。
高さ4mの石垣を築く工法は、城の石垣を築く伝統的な技法が用いられています。幕末、ペリー来航を機に東京湾内に台場(大砲を備えた海防施設)を建造した際に、海の泥の上に作る技術も習得していました。

 式典の翌日から、新橋―横浜間を朝8時から夕6時まで(正午を除いて)1時間おきの往復運転が始まりました。当初は単線だったので、川崎停車場ですれ違いましたが、明治14年には全区間が複線化されました。
 運賃は、3種類に分かれ、「上等」が1円12銭5厘、「中等」が75銭、「下等」が37銭5厘。
 米価から推測すると、現在の1万5000円、1万円、5000円に相当します。それにしても「下等」という名称はひどいものです。

 2003年、再開発された汐留シオサイトに、当時の二階建て石造りの新橋停車場が再現されています。

復元された新橋停車場


 当時の横浜駅は、生糸などの輸出(この年、富岡製糸場の操業も始まっています)に便利なよう、港の近くに建てられましたが、明治22年(1889年)東海道線(新橋―神戸)が開業した際、現在の横浜駅に移りました。
 なお、東京駅が開業したのは1914年12月、大正3年になってからのことです。

 明治初期、日本の近代化のスピードはものすごいものでした。特に、この明治5年は、富岡製糸場が操業開始、学制公布、鉄道開業。
 そして年末には太陰暦から太陽暦へと、人々の暮らしに大きく影響する変化がありました。また、鉄道開業により、時刻の呼び方も一刻、半刻などから24時間制に移行しました。

 

旧知のJR東日本 深澤祐二社長と、150年にわたる年表の前で

 

明治期からの駅弁掛紙