関東大震災(1923年、大正12年)から99年を迎えた1日、最も被害の大きかった私の地元にある東京都慰霊堂(墨田区横網)で、秋篠宮皇嗣同妃両殿下のご臨席のもと、「秋季慰霊大法要」が行われ、私も参列、お焼香しました。

 東京都慰霊協会(青山佾会長)が主催で、東京都仏教会が協力した仏式。今回は芝・増上寺の法主が導師を務めました。

コロナ対策として一般の参拝者は午後にしぼり、私たちは一列置きに5人掛けの椅子に1人という配置でした。

 

 

 9月1日が「防災の日」として各地で防災訓練が行われるのは、関東大震災の日付にちなんだものですが、私の地元では慰霊の日であり、防災訓練は別の日に行います。

 

 地震の規模はマグニチュード7.9と推定され、死者・行方不明者は10万5000人余り。犠牲者の9割は火災によるものでした。

 午前11時58分に発生したため、七輪の炭火で昼食の準備をしている家庭が多かったことや、台風シーズンで強風の日だったこと、住宅など建物のほとんどが木造だったうえ、大八車にたんすやふとんなど家財道具一式を載せて逃げる人が多く、火が燃え移り、広がったことが被害を大きくしました。

 両国国技館の近く、慰霊堂がある横網公園は陸軍被服廠(しょう)跡」と呼ばれ、軍服工場が移転した跡の広大な空き地でした。4万人が避難のために詰めかけましたが、火に囲まれ、竜巻のような火災旋風により人が空中に巻き上げられる事象も起き、焼死、窒息死、圧死などで3万8000人が命を失いました。まさに「地獄絵」だったでしょう。

 当時はまだラジオ放送もなく、新聞社も焼けたため、たとえば朝日新聞が最初に号外を発行できたのは3日後の9月4日、大阪でした。

 

 大震災の後、「帝都復興」のかけ声のもと、後藤新平のリーダーシップや世界各国からの支援もあり、わずか4年後に片側4車線の昭和通りが開通し、中央区などでは鉄筋コンクリートの小学校もつくられ、災害時の避難場所として隅田公園などの公園もできました。

 

しかし、本所(墨田区南部)や深川(江東区)、浅草など東京・下町一帯はその22年後、昭和20年3月10日未明、米軍による東京大空襲で、また焼き尽くされました。大空襲の時も、最も多くの死者を出したのは、この被服廠跡でした。

 

私が27年前、この地で政治活動を始めた頃、関東大震災、東京大空襲の両方を体験した方から、「うちは近くの被服廠跡ではなく、墨田区北部に逃げたから助かった」とか「上野の山に逃げた人は助かった」「空襲の時、どうしてまた被服廠跡に逃げた人が大勢いたのだろうか」といった話を伺いました。もっとも、上野の山を目指しても、途中、隅田川があり、橋の上や下(川の中)に多くの方の遺体が積み重なったといわれます。

 

「今後30年以内に首都直下地震が起きる確率は70%」と想定されています。(私が国土交通副大臣たった2007年-2008年当時も、同じ「30年以内、70%」と言われていましたが)

大正時代に比べれば私の地元でもコンクリート造の建物が増え、耐震化や道路拡幅も大きく進みましたが、東京都の危険度マップで上位にくる町が多くあります。来年は関東大震災から100年、国会議員として取り組む仕事はまだまだたくさんある、と決意を新たにした日でした。