安倍晋三元総理の国葬が9月27日、日本武道館で行われることが決まりました。

安倍さんの個人的な思い出を、数枚の写真とともに振り返ります。

 

 「選挙にめちゃくちゃ熱心で、気配りの人」「記憶力抜群の人」「笑顔がすてきな人」「大勢の前でも、少人数で飲食しながら話していても、とても楽しい人」でした。

 写真は昨年秋の衆院選後に開いた政治資金パーティー(千代田区のホテル)で講師をしていただいた時のものです。

 

 安倍さんは、晴れ男と言われ、梅雨時の伊勢志摩サミット(2016年)でも、伊勢神宮にG7首脳が参拝したその瞬間だけ雨がやみ、日の光が射しました。

今月12日、葬列が国会議事堂正門前を通過するのを待ち受けていた私たちも、昼過ぎから降っていた小雨がやみ、晴れ間さえ表れたのに驚いたりしました。

 

 しかし、民主党の野田佳彦総理が衆議院を解散し、落選中の私に復帰のチャンスが訪れた2012年秋、町屋駅前の街頭演説会に駆けつけてくれた時は、激しい雨でした。

 

 安倍総裁はマイクを握るなり、開口一番、「私がここ町屋駅で皆さんにお話しする時は、前の時もそうでしたが、ひどい、どしゃ降りで、かなり濡れてお待ちいただき、本当にすみません。2度も大雨になってしまい・・・」と述べて、頭を下げました。

私はびっくりしました。応援演説の日付の記録は残っていても、「どしゃ降り」は安倍さん本人の記憶で、選挙に集中力を持つ人だからこそ、体感として覚えていたのでしょう。

私自身、そのいずれの際も、街宣車の上で、傘をささず、その直後、車のシートにタオルを敷いた上に座ったにもかかわらず、翌日になってもシートが乾いていなかったことをよく覚えています。

 

 私が「現職3人の戦い」という厳しい選挙を勝ち抜き、2期目の当選を果たした2003年11月の選挙の際は、まだ40代の若き幹事長として、異例の2度、応援に来てくれました。

 2度目は最終日の午後7時過ぎ。JR日暮里駅の50段におよぶ外階段(その後、私の強い要請でエレベーター、エスカレーターが設置された)を颯爽と駆け下りてきた姿は、今も脳裏に焼き付いています。

 

 それから15年後、私が党広報本部長時代、総裁ポスターの写真を一緒に選んでいるとき、私が「あの時は、若くてほんとにかっこよかったですね」と懐かしむと「お互い、若かった」と。「年を重ねたのは松島さんも同じだ」と、言わんばかりに。

 また、この時、私が「今回、衆参合わせて6連勝目ですね」と口にすると「松島さん、連勝記録には総裁選も入れなきゃ駄目だよ。総裁選が無投票になった時も、それは誰も出られない状況に追い込めたのだから勝利に数える」と得意げに語ったのです。

 秘書官らによると、常々、そう話していたそうです。確かに、自民党の総裁になってこそ、政権を担えるのですから、当然といえば当然ですが。

 

 2回目の安倍政権が誕生した半年後の都議会選挙は、候補者59人が全員当選するという快挙、異例の事態でした。安倍総理の高い人気を背景にしたものです。自民党が強固な地盤を持つ中国地方の石破茂衆議院議員(鳥取、当時幹事長)ら自民党が強固な地盤をもつ地域の先輩方が「うちの地元だって自民党の県議候補が全員当選なんてありえない!」と驚いたほどです。「自民党が強い」とは決して言えない東京都で「安倍旋風」が吹いたわけです。

 

 墨田区の川松真一朗都議は、この時、都議初挑戦、墨田区(定数3)で2人目の自民党候補として公認が決定したのは、告示の数日前でした。

 写真は両国国技館近くの街頭演説に安倍総理が応援弁士として来たときのものです。

 

 熱狂的な安倍ファンたちが押し寄せました。演説後の握手は、時間の制約から「ここまで」と決めていたラインをどんどん越え、「ここまで!」と叫ぶ党職員を振り切って安倍総理が聴衆と握手を続け、それを警視庁の警備がガッチリとガードしたことが強く印象に残っています。

 

 3年前の参議院選挙を総理大臣として戦った安倍さんは、私が広報本部長として提案した2つの「手間がかかること」を引き受けてくれました。広報担当が長い党職員たちが「総理にそこまでは求められない」とちゅうちょしたので、私が直接頼みました。

 ひとつは、選挙区候補者49人の1人ずつについて「安倍晋三です。○○県の皆さん、ぜひ○○候補をよろしくお願いします」という映像を録画しました。本人の政見放送(NHKに持ち込み)に加えるのと、SNSで流すのがねらいでした。

 もうひとつは、1人区の候補者について、1人ずつ(立ったままの握手写真ではなく)総理と対談している様子の着席のツーショット写真を撮影してもらったことです。実際に2、3分話して、それらしい写真を撮り、話題も確認しました。

 この写真を使い、対談記事を載せた「自由民主」個人版を党で作成し、各候補者に活用してもらったのです。

 なお、この2つのチャンスを自ら放棄した候補、数人はすべて落選しました。

 

 私たち衆議院議員は選挙準備も選挙戦も、すべて自分自身で戦わなければなりませんが、参議院選挙は党として取り組む部分が非常に大きいのです。

 

 最後の思い出となったのが、今夏の参院選、東京選挙区、生稲晃子さんの選挙です。私は安倍さんが立候補を要請した生稲さんの23区選対本部長を務めました。

 

 

 写真は有楽町での出陣式と、6月27日、地元墨田区の東武ホテルレバント東京で開いた演説会の模様です。

 

 演説会には1000人近い聴衆が来てくださり、用意したビラが足りなくなり、あわてて補充するほどでした。

安倍さんは候補者本人が現れるまで応援演説、そして最後の「勝つぞコール」も一緒にやってくれました。

「よく集まっているね。がんばったね」とほめてくれました。参議院選挙では生稲さんが無事当選し、特に墨田区では3位に入った(東京全体では5位)ことを報告し、「よくやった」とまた、ほめてほしかったのに・・・。字にすると、まるで子どものようですが「妹分」の偽らざる本心です。

 

 この日、私の選挙区が大きく変更されることにも強い関心を持ち、「大変だね。相談に乗るから」と励ましてくれ、頼りにしていたのですが。