2月に亡くなった「石原愼太郎さんお別れの会」(セルリアンタワー東急ホテル)に9日、参列しました。

 

 発起人を代表して、安倍晋三元総理、そして国会議員を代表して岸田文雄総理が弔辞を述べました。

 

 

 安倍さんは「初めてお会いしたのは学生時代。父(安倍晋太郎)を訪ねてこられたのでワクワクして一緒にお会いし、最後に、自分が読んだ石原さん著作の文庫本、ちょっと、しわが寄っていたのですが、それを差し出してサインをお願いしたところ『こからサインを頼む時は、買ったばかりのきれいな新刊本にしなさい』と苦言を呈してから「ニコッ」とあの笑いを浮かべたのです。

 亡くなった翌月、石原伸晃さんから、お母様が亡くなったと知らされた時、「お父さんが連れて行ったんだね」と話したら「いや、母が追いかけて行ったんですよ」と。ご夫妻の関係をよく表わしているな、と思いました。

 先生は、ずいぶん無茶なやり方もしたり、
時に傍若無人に振る舞ったこともあったけれど、そうしなければ、『日本を正しくする』という気持ちが伝わらないと思われたのでしょう。これから私たちに残された仕事だと思っています」

 

 石原伸晃前衆議院議員が喪主あいさつの中で、「すい臓がんと闘ってきましたが、今年1月、『おれがこれまで歩んできた人生、結局、楽しい人生だったのかな』」と聞かれたので、『あれこれ、いろいろ好き勝ってやってきたんだから、そりゃ、楽しい人生だったでしょう』と答えるとニコっと笑いました。

 私自身が石原慎太郎さんに、身近に接したのは、議員になる前、政治記者時代のことです。

 夜回り取材で田園調布の瀟洒なお宅に伺った際、入ってすぐの小部屋に通され、待つこと数分。愼太郎さんはグレーのジャージの上下姿で現れ、丸テーブルに着き、ブランデーをごちそうになったことが、印象に残っています。

 

 彼は、36歳の時、参議院全国区で史上最高得票のトップ当選で政界に入った人で、当時はすでに清和会(今の安倍派の源流)所属の衆議院議員でした。「私や扇千景さん(のちに参議院議長)などのことを、タレント議員と言って下に見る人がいるが、とんでもない。タレント=才能があるということなんだ。初当選の時、高い演壇から『飛び降りてみろ』という客がいたから、ポンと飛び降りたら、拍手喝さいだった。他の政治家と違って若かったから。それに、弟(故、石原裕次郎氏)より脚は長いんだから」と機嫌よく話していました。

 

 当時は清和会(三塚派)が分裂の危機にあったので、それに関して質問したら「自分で取材しろよ、それが仕事だろ、いったい、どことどこに取材に行ったんだ!」と怒られ、私は「だから、あなたのところに取材に来ました」と反論したかったのですが、内心、「この人、あんまり動きをつかんでいないのかな、意味ないところへ来ちゃったかな」と思い、ご自宅を辞したのです。

 

 その2年後、彼は在職25年の永年勤続表彰を受けた衆議院の本会議で辞職を表明しました。

 

 ご長男の石原伸晃さんには、いつも選挙応援に来てもらい、大変お世話になりました。

応援演説の切り出しは、決まって「知事をやっている、うちのオヤジがまだ衆議院議員だったころ、うちに帰ると玄関に見慣れない女性物の靴がある。オヤジ、オフクロに内緒で女性を引っ張り込んだのかな? 一瞬、疑ったら、朝日のみどりちゃんが我が家のとっておきのブランデーを一緒に飲みながら、粘って取材していたのです!」と笑いを取るのでした。

 献花のあと、出口で、アクリル板の向こうに喪主として立っていた伸晃さんは、「みどりちゃん、ありがとう」と、いつも通りの呼びかけと仕草で、手を振ってくれました。

 昨秋の選挙後、初めて石原伸晃さんに会えたことが、(この場にふさわしい言葉でないかもしれないけれど)とてもうれしかったです。

 なお、司会は次男で俳優の良純さんでした。