私が大変お世話になった、尾身幸次元財務大臣が4月亡くなり、20日、前橋市で行われる自民党・尾身家合同葬(安倍晋三葬儀委員長)に参列します。沖縄北方対策や科学技術担当の国務大臣、経済企画庁長官なども歴任されました。石原慎太郎氏と一橋大の同期という昭和7年生まれ。尾身朝子衆議院議員のお父様です。



 本当にたくさんのことを教えていただきました。
 父親を早くに亡くされ、「旧制中学時代は『納豆売りの少年』と地元紙に取り上げられるほどアルバイトに明け暮れた」(本人)という苦労人。通産省(現・経産省)の官僚から、自民党の強い群馬(当時は中選挙区)で、最初は公認をもらえず無所属ながらトップ当選した、すごい人です。
 「1年で休みを取るのは12月31日だけ。1月1日は朝から夫婦手分けして新年のあいさつ訪問」「若い頃は、毎朝、派閥の福田赳夫会長(元総理大臣)のご自宅に伺ってから8時の党の部会に出た」──頭が下がりました。

 選挙に関して呼び出され、私から聴き取った弱点をノートに書き出し、あちこちに電話を入れてくれたこともありました。「46歳にもなってポスターに年齢書くもんじゃない」と叱られ、「もっと若く見えるんだから」という言葉に、うれしくなったこともあります。
 当選1回の時から、商工族として鍛えてもらい、3回生で党経産部会長になった時は、尾身先生、甘利明先生の2人で、祝いの席を設けて下さいました。

 経産副大臣になった時は、真っ先に大きなお花をいただきました。その数日後に京都で開かれた「科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム」(尾身先生が人生をかけて創った「STSフォーラム」、現在は小宮山宏・元東大総長が理事長)への出席を要請され、英語で科学技術政策についてスピーチをしました。企業経営者や学者が何百人も集まる会議で、安倍総理のあいさつの直後が私のスピーチで、緊張したことを憶えています。

 沖縄に世界的レベルの「沖縄科学技術大学院大学」(事実上の国立)を創り、引退後もノーベル賞学者を世界各地に訪ね歩き、大学への招へいや毎年秋に開くSTSフォーラムへの出席を依頼された尾身先生を私は尊敬していました。沖縄担当と科学技術担当を同時に担われたことが、人生を決定づけました。

 財務大臣時代に大臣室を訪ねると、真先に「写真を撮ろう」。財務大臣との写真は私の選挙に役立つはずだという配慮からでした。
 選挙の度に応援に来てもらい、自民党が野党に転落した2009年、私と同様に落選、引退されました。荒川区での夕方の会合から、地元前橋に急行されるときは、「弁当を用意します」という、うちの事務所の提案に対し、「いや、あんパンだけ買っておいてくれればいい」。あんパンがエネルギー源とは、昭和1ケタらしい要望でした。

 走り続けた人生、これからはゆっくり、お休みください。