自民党兵庫県連(西村康稔会長)の「ひょうご未来塾」で23日「公募第1号 落下傘候補が10万票を超すまで」と題して講演しました。地方議員や、政治を目指す人たち計60人近くが参加、質疑応答も含めて熱心に聴いてくれました。

 細川政権で野党に転落し、小選挙区制度が始まることに合わせ、1994年に自民党東京都連が初めて一般公募を行い、朝日新聞の政治部記者だった私も手をあげました。

 50人余りが応募し、私を含む3人が論文と面接の試験に合格、衆議院議員選挙の候補予定者となりました。

保守層が厚い下町、東京14区(墨田区、荒川区、2017年から台東区の一部にも拡大)で、知り合い3人から政治活動を始めました。1996年の最初の選挙では惜敗率96%ながら落選しましたが、2度目の選挙で平成12年、初当選しました。結局、公募組3人で議員になったのは私だけでした。

 

 その後、自民党は、2005年の郵政選挙の時の「刺客」や、民主党政権からの政権奪取を目指した2012年の選挙などに際して全国各地で公募を実施し、兵庫県からは公募で5人の衆議院議員が誕生しています。

 

 お祭りやもちつきなど地元のイベントでは、名札を付けて歩き、コロナ前は地元で「ひと夏100会場」の盆踊り巡りを続けました。赤い服で踊り続ける私を秘書が指差しながら、名刺を配りました。

 

 名前を知っていただく最大の武器はポスターです。墨田区では約170ある町会のうち105の町会で、町会長や女性部長、老人クラブの会長の皆さんに同行していただき、町内にポスターのお願いにまわりました。

 

2005年の「郵政選挙」の際、各地で「落下傘」と呼ばれる候補が立ちましたが、3期目の当選を目指していた私は、町会会館での演説会で「私も残念ながら地元出身ではなく、落下傘候補でしたが、皆様の応援で、きれいに傘を開かせ、無事、着地させていただくことができました」と話しました。すると、80歳近い町会長が「みどりちゃんは落下傘じゃない!墨田の人間だ!」と叫んでくださったことが、忘れられません。その選挙では、11万8771票をいただきました。

 

 質疑応答ではたくさんの質問を受けましたので、失敗談や、つらかったことも話しました。

 

 政治の道に入り、最初に作った名刺に経済部、政治部などの記者生活の担当分野ばかり詳しく書いていたところ、加藤紘一代議士(元幹事長)から「みどりさんは独身なの?」と聞かれ、「夫がいます」と答えると、「それをわかるように名刺に書いたらいい」と教えられ「夫と2人暮らし」という一節を入れました。

 「『独身のバリバリ、キャリアウーマン』と思われるより親近感がわく」と言われたのですが、実際、その通りでした。地元女性たちから「旦那さんいるんだ。結婚のいきさつは?」と聞かれ「私が一目惚れして、一年間プッシュしてゲットしました」と白状すると、生身の人間を感じてもらえました。

 少しでも共通点を感じてもらいたくて「さる年、かに座、血液型A型」などというデータも入れました。

 

 また、区議会の先生方を初めて挨拶回りした時も、区内の端から順番に訪ねていきましたが「議長とか会派や支部の幹事長から先に行くべきだった」と、後で知りました。

 記者を辞めて政治の道に入ってまもなく、いろんな壁にぶつかりましたが、細田博之代議士(現 衆議院議長)から「そんな暗い顔していたら、誰もついてきてくれないよ。嫌なこと言う人もいるだろうけど、あの人もこの人もみんな応援してくれていると、前向きな明るい表情でいないと」と注意されました。

 

 また、森喜朗幹事長(当時。後に首相)のご自宅留守電に頼みごとを入れ、最後におずおずと「松島みどりでした」と述べたところ、あとで「一体、誰がかけてきたのか、妻と一緒に何度も聞き直したが、肝心の名前が消え入るような声でわからない。声と内容から、あなただろうとは思ったが」と愛情あふれるお叱りをいただきました。

 そんな私も7回生となった今では、若手議員や、新人たちに「自己紹介でも留守電でも、名前は最初にはっきり、ゆっくりと繰り返す」「名刺には、有権者が自分との共通点を見つけられる情報を盛り込む」などと注意、説教しています。

 

 最後に「とにかく明るく前向きに活動していれば、人々の心を動かす」ということが一番大切なのだと締めくくりました。

 自分の政治人生を振り返る、いいきっかけとなりました。